米の生産と供出の状況

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昭和二十九年に供出割当制が廃止され、予約売渡制に改められるまで、米の需給全般にわたる管理が継続された。昭和二十年代の東京版(多摩版)の新聞は、食糧供出の遂行状況を頻繁に報じている。食糧難であったため、農業生産は重大な関心事であったのである。米の供出状況の一端を紹介するため、凶作であった昭和二十年産米の生産・供出状況に関する記事を要約し、提示してみることにする。
[昭和二十一年一月二十四日]八南地方(八王子市と南多摩郡のこと)の産米の供出(供米)は順調。同月中に完了するものとの観測がなされている。筆頭は稲城村の九一・九パーセント。多摩村の供米遂行率は不明であるが、各町村の遂行率の平均は六四・六パーセントである。
[二月十五日]多摩村の供米遂行率は八一・六パーセント。各町村の平均は八一・七パーセントであり、多摩村は平均に僅差で劣っている。完納は、浅川、恩方、加住、堺、元八王子、横山の六町村。
[二月二十七日]多摩村の供米遂行率は九〇パーセントを超えている。町田町は完納。日野町は五七パーセントで八南地方のなかでは最低である(資四―154)。
[三月八日]多摩村の供米遂行率は九一・九パーセント。割当量六五四・〇石のうち六〇二・二石を供出した。南多摩郡は不振で、日野町は五八・七パーセントと特に振るわない。日野町の不振の理由は、農業会首脳部の地主達の非協力的態度のため。現状のままでは日野町に対して強権発動の可能性もある。西多摩郡の供米成績は好調で、西多摩村以外は完遂。北多摩郡も西府村と立川市以外は完了。全体的には前年より好成績。

(『毎日新聞』昭和二十一年一月二十四日、二月十五日、二月二十七日、三月八日付)

 昭和二十八年(一九五三)産米の供出をめぐる混乱があったことも紹介しておきたい。新聞は供米割当をめぐる「もめごと」を報じている(『毎日新聞』昭和二十八年十一月二十九日、三十日、十二月八日付)。主たる話題の提供者は日野町であり、多摩村は「それほどでもなかった」ようなのだが、供米割当に不満があったのは事実のようである。「……もみにもんだ八南地区農業委員代表者会議も供出割当数量二二七〇石(超過供出四四〇石)の数字の基礎となった食糧事務所調査の坪刈り反収一石六斗をめぐってケンケンガクガク水かけ論を続けた」(『毎日新聞』十二月八日付)が、当初通りの決定となり、日野、七生、多摩、川口の四か町村は「こんな無理な割当をのんだら町村にもどれない」と、席を蹴って退場した。日野町農業委員会では、十一月二十八日に緊急総会を開き、総辞職するという決議を行い、一八名が辞表を提出するにいたった。これは、二十七日に開かれた八南地区供米割当協議会で決定された割当量への不服ゆえである。割当量が不当であるという主張が認められず、当初通りの割当決定となったことが生産者に申しわけない、というのが理由である。日野町農業委員である立川克己は「第一回協議会以来実績調査を基準とする適正割当を要望し続けて来たがついに容れられなかった。……日野町は収穫皆無に近い場所を除き平均収穫予想一石五斗に対し一石七斗二升の割当は農民が可愛想だ。我々が(協議会を)退場したあと七生、多摩も退場したと聞いた。負担の軽い町村の中には拍手で承認したものもあったが、日野、七生、多摩は南郡の供出の六割を背負っているだけに問題は重大だ」と語っている(『毎日新聞』十一月二十九日付)。
 村内で公選された食糧調整員(農業調整委員会)が、供出割当を担当する建前ではあった。供出割当の体裁には民主的な装いが凝らしてあったのだが、前記に見られるように「民意」を反映させることは難しかった。形式的には民主的ではあっても、実際には都からの「上からの指令」によって、任務を遂行するようになっていたのである。もっとも、日野町以外の町村は案外平静であったらしい。日野と同様に協議会を退場した、川口、多摩、七生の三か村には変わった動きはなかったという。