日本の農地改革は、第一次と第二次とに大別される。第一次改革は、昭和二十年(一九四五)十一月二十二日の閣議で「農地改革要綱」が決定されたことが端緒となった。自作農創設、小作料の金納化、市町村農地委員会による改革の推進を内容とするこの要綱は地主側に配慮したものであり、改革を推進するものではあったが不徹底なものであった。それでも、帝国議会内での政府案に対する反発は強く、審議未了になるところであった。しかし、十二月九日にGHQが発した「農地改革に関する覚書」が形勢を逆転させた。改革の実施についての意向が、GHQから示されたからである。帝国議会は政府の農地改革案を認め、十二月二十九日に農地調整法が改正公布された。農地調整法は、翌二十一年二月一日に施行され、第一次改革が開始された。
第一次改革では、自作農創設の対象となるのは全小作地の三八パーセントでしかなかった。強制譲渡方式が採られたが、実際には無力であった。地主は家族や親族の間で所有権を分散し、農地委員会による買収を免れることができたからである。地主が自作することにしてしまえば、小作農から農地を召し上げることも可能だった。改革としては不十分なものであったから、小作農の意見を集約していた農民組合側からの不満も大きいものであった。GHQも不十分であると認識していたので、昭和二十一年六月に日本政府に徹底した改革を行うように指示した。日本政府はそれまでの微温的な内容を改めざるを得なかった。十月二十一日には、農地調整法のさらなる改正を行うとともに、自作農創設特別措置法を公布した。前者は十一月二十二日に、後者は十二月二十九日に施行された。これらを根拠法として、第二次農地改革が始まった。
解放対象農地を地主から買収し、小作農等に売り渡すことが、農地改革の骨格の事業であった。この実際の仕事は、市町村ごとに設けられた農地委員会によって進められた。多摩村農地委員会では、二十一年十二月、地主三名、自作三名、小作六名の農地委員が選出された。農地委員会は行政委員会であり、農地委員が中心となっていたが、事務を担う専任の書記と部落補助員が重要な役割を果たしていた。
農地改革のなかで定められた自作農創設特別措置法は、在村地主が保有する小作地を一町歩までに制限した。それ以上の面積をこえた土地は、買収の対象となった。地主と小作の解釈の違いはもちろんあったし、農地をどのように定義づけるのかについても対立があった。解放対象農地になるのか、それともならないのか。山林や墓地に隣接した農地であれば、どこまでが山林なのか、どこまでが墓地なのか、が問題となった。住宅敷地と農地の境界が曖昧な場合も、係争点となった。戦後の日本では、戦前に増して農民運動が活発となっていたから、これらの農地をめぐる争いは全国的な傾向であった。三多摩地域でも、日本農民組合の支部が市町村単位で結成されたという。当然ではあるが、多摩村でも農地改革をめぐって争いが起こった。買収計画への異議申立が多摩村農地委員会の議題となっている(資四―165・169)。
昭和二十一年三月二十一日付の『毎日新聞』は、東京都下の軍用地が「農耕地として開放される」ことを報じている。多摩村では、陸軍の戦車道路の一四町分が対象となっていた。