農林省農政局は、昭和二十年(一九四五)七月十五日に「農業技術渗透(しんとう)方策」を立案した。これは戦争最末期の逼迫(ひっぱく)した食糧事情の改善を目的としたものであり、「第一線の農業指導力を強化するために、農林省および都道府県の農事試験場の機能を拡充し、その下部組織として、郡内数か所に技術指導農場を設立して、当時農業指導を直接担当していた地方農業会技術員を中核とし、精農家、食糧増産実践班長、農学校、青年学校教職員、食糧検査員等の技術訓練を行い、さらに、これらの指導者に農家の作業能率の増進をはからしめようと」(『農林行政史 第六巻』昭和四十七年)したものであった。
この方策は、同年十二月二十一日に新聞発表された「農業技術滲透方策要綱」によって具体化され、実行に移された。技術指導農場(指導農場)は地域における農業指導者の力量を「錬成」するための教育機関であり、「食料増産実践班」として組織された農民達の模範となるべきものであった。
多摩村にも、模範となるはずの指導農場が設置された。しかし、新聞記事を見るかぎりでは、成果を挙げることができなかったように思われる。昭和二十三年(一九四八)五月六日付の『毎日新聞』には、昭和二十一年に設けられたばかりの「期待はずれの指導農場」が廃止されることが報じられている(資四―172)。三多摩地域では、北多摩郡には久留米・神代、西多摩郡には霞・多西、南多摩郡には川口・南・多摩に指導農場がつくられたという。多摩村の指導農場については、開墾したばかりで収穫はほとんどなく、廃止されても大した影響はないと記されている。また、昭和二十二年十月一日付の『毎日新聞』は、桜ケ丘保養院と農地委員会が農地法の解釈をめぐって対立していることを報じているが、これも指導農場が絡んだ問題であった(資四―171)。