「背中にたよる農業」からの脱却をめざして

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昭和二十年代の多摩村の農業と農村生活を語るだけの十分な資料に恵まれているとはいえないので、聞き取り調査を実施し、資料の空白を埋める作業に取り組んだ。横倉舜三氏は、自著『多摩丘陵のあけぼの』(前編は昭和六十三年・後編は平成三年)のなかで、昭和二十年代の多摩村の様子を活写し、時代相を提示している。以下の記述は、平成十年二月三日に実施された、横倉舜三氏に対する調査によるものである。
 敗戦後の多摩村では、二〇代の若者が地域の一線に立って活躍することができた。落合の唐木田地区では、八人くらいのメンバーで「新生クラブ」を結成し、地域社会の問題を毎晩のように語らった。中心的な話題は「個々の生活の向上」「(そのための)農業の改善・改革」「地域の改革」である。当時は、農業を生業としてやるしかないと思っていた。これからの農業や地域のことを自由に遠慮なく話せる集会所を自分達の力でつくろうということになったのは、そのためである。昭和二十二年、かや葺き屋根の唐木田集会所を自力(労力奉仕)で建設した。

図2―2―1 開発前の旧唐木田集会所

 しかし、現在の多摩ニュータウン区域にあたる場所は入り組んだ丘陵地形であり、当時の農業近代化方策をすんなりと適用することはできなかった。酪農や養豚や養鶏も、機械化も、農道の整備にしても、積極的にやりたかったが、これも困難だと思われていた。この隘路(あいろ)を解決しなければ「背中や肩にたよる」農作業から脱却できないので、いろいろと手をつくした。まず、農家の現金収入を増やそうとした。例えば、昭和二十年代の落合地区の農家の現金収入源は、夏は養蚕、冬は薪・炭・目籠(めかい)・賃仕事であったが、これらが「だめになってきた」からである。養蚕は、終戦時までは潤っていたが、戦後はどうやっても儲からなくなった。これは人造絹糸の影響もあるのだろうが、ともかく輸出が振るわなくなっていたので、売れなくなった。代替生産物を何にするかと、考えざるを得なかった。
 養蚕をやる場合、蚕を飼う部屋を暖めるために、冬には暖房用の炭が必要になる。炭は集落の山林のくぬぎでつくった(戦後の一五年間ほどは炭焼きをやっていた)。くぬぎは、自然に放っておいて生えるものではないので、「やま」を植え替える必要があった。桑や野菜づくりのための肥料としても落ち葉は必要であったし、また、かや場としても重要な役割を担っていたから、山林の手入れはきちんとやらなければならなかった。農村生活を成り立たせるために山林はなくてはならない存在であったのだが、時が経つにつれて山林の手入れを怠るようになってきた。理由としては、養蚕が廃れたこと、屋根瓦の普及により、かや場としての価値がなくなったこと、などが挙げられる。
 農業生産の効率を高めるため、耕地整理を実施したのもこの頃である。一〇町歩に及ぶ唐木田の「棚原耕地」は北斜面で地質の軽い、野菜づくりに適した畑だったが、所有権が入り組んでいた。それを交換分合などで、使いやすいものにした。この農地で採れるさつまいもは評判だったが、いかんせん生産量が少なかったため、市場に安定供給することができず、需要に応えることができなかった。冬は暇になりがちだったが、ほうれんそうを栽培し、仕事と収入を確保しようとした。耕地整理により、耕耘機などの農業機械を使用することができるようになったが、農業に金がかかるようになってしまった。ビニールハウスや農薬や化学肥料などの新技術も導入してみた。ゴルフ場の「府中カントリー」に土地を売ったのも、近代的な農業をやろうとしたためである。農業機械が使える農地をつくろうという意図があった。また、二毛作のためには暗渠排水設備が必要だった。資金を得て、自分達の農業を実のあるものに変えたかったのである。
 畜産振興にも積極的に取り組んだ。乳牛や養豚を各農家に推奨した。これは多摩村農協の方針でもあったが「一軒に一頭は飼え」、ということで進めた。養鶏も盛んになりつつあった。仔豚のせり市も、昭和二十五年頃に二年間ほどやってみた。この頃の先進地は静岡県の浜松であり、そこへ黒豚のバークシャー種を買い付けにいった。二十五年に二七歳で農協の常務理事になったが、農協は「金まわり」の悪い状態にあった。農協は戦時中の農業会の業務を引き継いだのだが、売りさばくことのできない不良在庫もあり、これが経営を苦しめていた。思い起こされるのは、醤油醸造用の大豆と岩塩である(醤油工場は関戸にあった)。戦後になると、輸入大豆が出回り、帳簿の価格では売ることができなくなっていた。在庫が捌けなくて、困った。その状況を変えたのが、昭和二十五年の「朝鮮動乱(朝鮮戦争)」である。在庫を整理することができたので農協は助かり、増資することができた。

図2―2―2 多摩村農業協同組合(昭和30年)

 ニュータウン開発以前に、農業に関する新しい試みをいろいろとやってみたことは事実である。しかし、これといった名産品・特産品をつくることに結びつかなかった。誇るべき産物があったとしても、ごく少数の人がやっていたのであって、出荷量は少なく、市場や消費者を満足させるものにはならなかった。近郊農業で頑張っていこう、ということにはなってはいたが、結局は、一部の農家の取り組みに終わってしまった。ニュータウン開発が始まったのは、そのような状態の時であった。