六・三制の発足と村の対応

688 ~ 690
昭和二十一年(一九四六)三月五日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の要請で米国教育使節団が来日した。使節団の一行は、日本側委員(代表南原繁)の協力をも得ながら日本の教育について調査検討し、新しい教育体制を確立するための報告書づくりにあたった。一行は一か月たらずで「第一次米国教育使節団報告書」をまとめ、三月三十日に連合国総司令部に提出した。この報告書には、六・三・三制の学制、男女共学、高等教育の門戸解放など、その後の日本の教育改革の基本が示されていた。
 その年の八月、内閣に教育刷新委員会が設置され、戦後の教育改革に本格的に取り組むことになった。この教育刷新委員会によって「教育基本法」や「学校教育法」(学校制度、六・三制を決めている)が協議された。十月十六日、この教育刷新委員会で六・三・三・四制の原案が決定され、十八日の総会で報告、文部省はこの時点でその要旨を都道府県に内示して対策を事前に協議しておくことをすすめた(東京都立教育研究所編『東京都教育史稿』)。新学制については十月二十七日に内閣総理大臣に建議された。
 他方、東京都においては、内閣に教育刷新委員会が設置された翌九月七日、東京都教育刷新委員会規程を告示し、同年十二月二十六日に都教育刷新委員会を発足させ、新制中学の二十二年度実施を中心に審議を開始した(『東京都教育史稿』)。
 六・三制の具体的実施については、昭和二十二年二月二十六日の閣議で決定され、同年四月より発足するということで固められた。文部省は閣議決定をみると、ただちに地方長官に対して新学制についての準備通達を発し、「新学校制度実施準備の案内」の解説書を全国市町村、学校等に配布した(『東京都教育史稿』)。
 六・三制が閣議決定された二月二十六日の日付で、南多摩郡事務所長は、郡内の各町村長に対して「南多摩郡新学制対策委員会仮決定事項通知之件」(多摩市行政資料)を発し、新学制に対する郡対策委員会の仮決定事項を送付した。それには制度、設置、施設、編成、経費、其の他と六項目に分け、さらに小項目に分けて説明している。
 この「仮決定事項」を受けた南多摩郡一七か町村では、二月末から三月にかけて新学制対策委員会を設置した。多摩村では多摩村新学制対策委員会が設立された。
 「仮決定事項」を受けた多摩村新学制対策委員会では、「仮決定事項」に基づいて多摩村の「新学制対策要項案」(多摩市行政資料)を三月中にまとめあげ計画を完成させた。その「要項集」には、「生徒ノ状況」、「学級編成」、「職員組織」、それに「多摩中学校・多摩青年学校全図」と「中学校々舎」がまとめられている。学級編成で実施第一年度(昭和二十二年度)は表2―2―5の通りである。職員組織は二十二年度は表2―2―6のように計画している。
表2―2―5 学級編成実施第一年度(昭和二十二年度)
学年 生徒数 学級
一年 八四 七四 一五八
二年 五七 五七 一一四
三年 四五 六〇 一〇五
一八六 一九一 三七七
「新学制対策要項案」より作成。

表2―2―6 職員組織
職員 昭和二十二年度
学校長
教官 一二 一八
事務官
校医
学校歯医
衛生婦
小使
給仕
一八 二六
同右。

 「中学校校舎」は普通教室、特別室、校長校務主任住宅、便所、倉庫物置、其の他となっており、特別室は職員室・小使室・応接室・校長室・社会室・図書室・工作室・工芸室・理科室・割烹室・裁縫室・美術室・会議室とすべて部屋割りまで机上のプランは完成していた。多摩村の対策委員会はこれらの計画を「火工廠の第三工場一七棟七八〇坪」の払下げを前提にしてつくりあげていたのである。
 昭和二十二年四月十五日、高野幾三村長は東京神奈川軍政部東京地区司令官宛に「旧第二陸軍造兵廠工場使用願」を提出した(資四―162)。以後、払下げの交渉は十数回重ねられたが、結果的には米軍の計画によってすべて机上のプランに終った。その結果が出されたのは後の九月のことである(昭和二十九年度「学事報告」多摩中学校)。
 他方、「学校教育法」が衆議院を経て貴族員で可決成立したのは三月二十五日、翌日には「教育基本法」が貴族院を通過し成立した。三月三十一日、「教育基本法」と「学校教育法」が公布され、四月一日施行となった。ここに新しく新制中学校が発足することになった。