村立多摩中学校の設立

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敗戦による混乱と貧困のなかで六・三制は決まり、新制中学校が発足することになった。多摩村では昭和二十二年(一九四七)三月十九日、「議案第一一号一、多摩村中学校設置の件」として村議会に提案されて可決され(議会事務局蔵「村会議録議案及議決」)、同年四月一日、多摩村立多摩中学校はここに設立された。
 校舎もない状況での出発ということから、多摩小学校を借用しての発足になった。場所は多摩村貝取一七二四番地、現在の市役所の位置である。四月十一日、職員三名、生徒二八一名で小学校上校庭で入学式を行った。施設は、小学校から普通教室四、裁縫室一、物置一、西側昇降口一を借用して教室をつくり、応接室を職員室とした。以後、毎日二時間宛、戦争による学力低下回復のため補習授業を実施しつつ職員の補充をはかり、五月五日、職員一〇名で開校式を挙行した。以後、五月六日から六月九日まで隔日授業とし、六月十日から正規の授業に入った(昭和二十九年度「学事報告」多摩中学校蔵)。その間、四月十九日に多摩青年学校長の松尾圭介が初代校長に就任し(資四―152)、新生多摩中学校の教育方針について次のように決めた。
人格の完成をめざし、平和的文化国家及社会を形成し、真理と正義とを愛し、個人の自由と人格を尊重し、勤労の責任を重じ自主的精神に充ちた心身共に健全なるものを育成する(昭和二十九年度「学事報告」多摩中学校蔵)

 この言葉は、教育基本法の第一条にそったものであるが、五十年後の今日でも厳然とゆるぎない言葉である。
 発足二か月後の昭和二十二年六月四日、南多摩地方事務所より「新制中学校に関する調」が行われた。備品と困っている事項と二部授業についての調査であるが、生徒用机・腰掛と職員用机・椅子については不足数量は「ナシ」と報告している。黒板の不足は一〇枚で小学校から借用、他は小黒板を利用、現在最も困っているものについての質問事項には教室の不足と住宅の不足をあげている。二部授業については六月八日で打切り、一学級は晴天の場合は教室外での青空教室であり、雨天の場合は三学級を二学級にしての授業を行っている、と報告している。物置や昇降口を教室がわりに使用していた時である。
 職員の任用について、発足当初は手探りの状況にあった。それを含めて昭和二十二年四月二日の時点では次の様な方向が打ち出されていた。
新制中学ハ四月下旬カラ発足 校長ハ四月十五日頃決定 専任三〇〇〇名ナリ 青年学校ハ廃止スルコトナシ (校舎の)模様替ヘニ多少ノ補助アリ 教員資格ハ国民学校、青年学校教員ハ当然ナル 長期講習会ヲ開イテ実際免許状ヲ与フ

(昭和二十二年度以降「職員会議録」多摩中学校蔵)

 教職員探しは困難であったという。それに教職員に対してはGHQの指令で教員適格審査が実施された。軍国主義的、好戦的国家主義者をはじめ連合国軍に反対の意見を公表した者がいた場合は「腹蔵なく卒直」に記入して知らせて欲しいという調査も公布された(昭和二十二年「公文書綴」受 多摩中学校)。
 教師は専任一四、講師一、教科は社会と職業、職業と音楽、美術と英語、国語と社会、理科と数学、理科と英語というようにほとんど掛け持ちで、専科のみ担当の教師は三人にすぎなかった。
 クラス別の在籍生徒数は表2―2―7の通りである。三年生が少ないのは高等科二年で卒業し、中学三年に進級しなかった者がいたからである。
表2―2―7 多摩中学校生徒在籍者数 昭和22年
学年 学級 在籍数 生徒合計
1年 1組 48 140
2組 44
3組 48
2年 1組 44 106
2組 31
3組 31
3年 1組 41 41
7組 287 287
昭和22年6月「多摩中学校概況報告」より作成。

 新制中学校発足当初の二十二年六月、一学期の授業の時間割は一年を例にあげると表2―2―8の通りである。GHQの四大指令の一つで、修身、日本歴史、地理の授業停止の命令が出されたのは昭和二十年十二月三十一日で、その後二十一年九月には『くにのあゆみ』上下ができ、同年十月十四日にはGHQにより歴史教育の再開が許可された。戦後の教育界にはなばなしく登場したのは社会科であるが、社会科の授業が全国一斉に行われるのは昭和二十二年九月からである。だから中学校では発足の年の二学期から登場することになる。
表2―2―8 第一学年一組 一学期時間割
時限
一時限 二時限 三時限 四時限 五時限 六時限
八時~九時 九時~一〇時 一〇時~一一時 二時~三時 一時~二時 二時~三時
理科 数学 図工 図工 音楽 郷土研究
数学 理科 体育 理科 国語
職業 職業 珠算 習字 自由研究 自由研究
国語 体育 国語 国語 数学
英語 数学 体育 英語
国語 理科 郷土研究 (職員会)
昭和二十二年六月「多摩中学校概況報告」より作成。

 時間割に新しく登場したのは職業、郷土研究、自由研究であろう。戦後の新しい教授法は、戦前のように国定教科書によって上から教えるというのではなく「むしろ下の方からみんなの力で、いろいろと、作りあげていくように変わっていった」(昭和二十二年三月二十日「学習指導要領一般編(試案)」)。また、この学習指導要領では、地域社会の特性や学校施設の実情や児童の特性に応じて教授内容を考え工夫していくことが指示されている。すべての教科にそれが期待されており、なかでも「郷土研究」などは地域社会を知る上で最も教育効果を高めることができたのであろう。だが教師にとってははじめての経験で困難な作業であったようだ(『多摩町誌』)。新しく登場した社会科では、調査学習ということで、なんでも実地に調べさせる教育方法のため、ノートと鉛筆を持った子供たちが、役場や裁判所や銀行などに押しよせることもあった。教師も「学習指導要領」の講習会や社会科の研究会に積極的に参加していった。