青年学校・進路・PTA

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戦後の青年学校は、昭和二十二年(一九四七)三月に公布された学校教育法によって四月一日に廃止された(第九十四条)。しかし完全に消滅したわけではなく「従前の規定による学校として存続」(第九十八条第一項)しており、多摩村立多摩青年学校も男女一五、六人が通学していたという(元青年学校教師麓仁一氏談)。二十二年度には「青年学校運営に関する措置要項」が出され、東京都においては勤労青年の教育について、二十三年度から実施予定の定時制高等学校ともにらみ合せ、青年学校を統合する考えもあった。さらに二十三年三月に至り、文部省は同年三月限りで青年学校を廃止する予定である旨の通牒を発し、ここに青年学校は消滅することになったのである(昭和二十三年度「公文書綴・発」多摩中学校)。
 昭和二十三年三月には、二十二年に新制中学三年生として入学した高等科二年生が卒業(第一回生)、翌二十四年三月には二回生が卒業した。一、二回生とも新制中学とはいえ義務制の中学生ではなかったが、かれらはどのような進路を目指していたのであろうか。
 昭和二十三年、二十四年当時は、政治は不安定で経済界はインフレが続き社会は混乱していた。二十三年十二月にGHQはインフレによる経済危機克服案を指令し、経済安定九原則が発表された。翌二十四年三月には、それを具体化した経済政策としてドッジ・ラインが発表され、増税のため中小企業の倒産が相つぎ経済界はデフレとなり、ドッジ=デフレと呼ばれた。この年、国鉄の大量人員整理をめぐって下山事件、三鷹事件、松川事件が相次いで起った。
 この年の六月、多摩中学校では第二回生の進路調査の報告がされている。二回生は新制中学発足の二十二年三月まで高等科一年で、四月に新制中学二年に就学した生徒である。その時点では男五一名、女五〇名の一〇一名であったが、卒業時点では八〇名になっている。かれらの進路調査の結果が表2―2―9である。進学・就職がそれぞれ全体の四分の一、家業に従事した者が全体の半分になっている。
表2―2―9 昭和23年度 多摩中学校第2回卒業生進路調査
24年6月30日現在
進路
進学 新制高校 10 1 11 23.8%
その他の学校 0 8 8
就職 9 12 21 26.2%
家業※ 24 16 40 50.0%
合計 43 37 80 100.0%
「昭和23年度卒業者 卒業後の状況調査票」より作成。
注)「家業」には調査票では「無業」になっている者を含む。その意味は進学や就職もしないで単に家事の手伝いをしている者を含む、とされている。

 あの終戦直後の不況期に、就職希望者にはどのような企業から求人があったのだろうか。表2―2―9は昭和二十三年の卒業生を対象にした八王子公共職業安定所による求人一覧表である。安定所は二十二年の職業安定法に基づいて同年四月に発足したばかりであった。八王子公共職業安定所は、八王子市と南多摩郡を管轄している公共機関で、表2―2―10は管内の企業からの求人である。求人の企業数は八王子市一七、日野町五、その他四である。八王子市の多くは糸・織物関係である。日野町は時計、自動車、電気で企業体としては八王子よりずっと大きい。募集人員は片倉工業が一五〇人と圧倒的である。この他、多摩地域は地理的に府中が近距離で、北多摩郡の職安との関係があったにちがいない。ともあれ多摩中学校の初期の段階の進路状況が把握できる。
表2―2―10 昭和23年新制中学卒業生求人一覧表
会社名 所在地 製造品目 採用人員
1 東洋時計日野工場 日野町 時計 10 30
2 冨士電機豊田工場 電気器具 30 20
3 神戸製鋼所東京工場 20 30
4 日興電機 八王子市 10 20
5 八王子自動車整備 自動車修理 5
6 柴田紡機製作所 織機製造 5
7 ヲグラ楽器 楽器 10 20
8 日本篩絹 日野町 篩絹製造 40
9 前場産業 八王子市 撚糸業 10
10 西川工業八王子工場 元八王子村 木工製品 5 30
11 八王子ミシン 八王子市 ミシン加工 10
12 日本ゴム工業(株)八王子工場 ゴム靴 20
13 郡是製糸八王子工場 製糸業 38
14 三菱銀行八王子支店 2
15 八王子繊維工業所 製糸業 30
16 矢口工業八王子工場 ミシン加工 25
17 特定局 3 5
18 片倉工業八王子工場 製糸業 150
19 相模電機 電気部品 5 2
20 町田産業 町田町 ミシン加工 6
21 鋼板プレス工作所 南村 プレス加工 5
22 日野産業 日野町 自動車 19
23 富田織物 八王子市 織物業 2 25
24 旭電線 伸線業 5 5
25 大竹授産共同作業所 手芸 15
「昭和廿三年三月新制中学卒業生求人一覧表」より作成。

 ところで、戦後発足し急速に発展してわが国最大の社会教育団体になったのはPTA(父母と先生の会)である。第一次米国教育施設団報告書で提言され、その後、GHQの民間情報局(CIE)が主体になって文部省や都道府県に指導がなされた。文部省は、昭和二十二年(一九四七)三月、『父母と先生の会―教育民主化の手引―』を作成してPTAの手引書とし、都道府県に送付した。さらに翌二十三年十月には『PTA参考規約』をつくり、これも都道府県に送った。この参考規約は、文字通り参考とされてPTAの発足に大きな影響を与えた。
 多摩中学校では、昭和二十二年六月十日、保護者会を結成、多摩中学校保護者会と称した。会長には現職の村長高野幾三が就いた。会員は二八七名、会費は一人一〇円、生徒一人増すごとに五円増額と決めた。昭和二十四年四月一日、時代の流れに沿って多摩中学校でもPTAを結成し、名称を村立多摩中学校父母と先生の会(PTA)と称した。
 会則は昭和二十六年五月に改正されたが、それによると、会費は一世帯月額五〇円である。昭和二十六年度の決算報告によると、収入の部(会費収入・その他)一九万四一九二円で、支出の部は厚生部費四万九六二五円、施設費(教材整備費・掃除用具費)三万八四七四円、教養部費八万五〇三八円、事務費一万二一八〇円、会議費八八七二円、繰越金三円となっている(多摩市行政資料)。
 昭和二十三年六月十六日、「東京都南多摩郡中学校PTA連合会規則」が施行された。本会は南多摩郡内中学校PTAで組織し(第四条)、南多摩郡中学校PTAの連絡親睦を図り、中学校教育の振興に寄与することを目的としている(第三条)。そのために教育に関する研究調査、世論の喚起・振興、PTA間の連絡提携、他団体との連絡交渉を事業としておこなうことを決めている(第五条)。多摩中は二十七、二十八、二十九年、それに三十二年と事務局として活躍した(昭和二十四~二十七年度「記録簿綴」南多摩郡中学校PTA連合会)。