建築委員会では、翌二十三年一月中旬から審議を重ね、小学校の新館を模様替えし、練成道場を移転補修して中学校仮校舎とすることを決議し、新年度より使用できるように工事に着工した。四月十五日、校舎未完成のまま中学校は新館に移転し、練成道場の移転補修も八月十五日に完成した。
中学校としては二部授業は極力避けてきたが、小学校との合同の弊害も生じ(資四―190)、中学生の増加や古い校舎のため維持修繕費も村の財政を圧迫してきた。そのような経緯を経て二十五年頃から中学校独立への気運が増大していった。
それを踏まえて昭和二十六年二月、対策協議会が結成され、今後の生徒の増加を考慮して「如何なる困難をも克服して新制中学校を建設せねばならぬとの決定に至」り、全村が固く結束して中学校校舎建設へ向って前進していった。
当面の最大の問題は学校用地にあった。村には財源はなかった。しかし中学校としての広い用地を獲得する必要があった。生徒の通学を考えると当然村の中央に位置する多摩小学校(現在の市役所の位置)が適地であるが、そこには中学校を建設する余地はなかった。そこで、村の意向として「金のかからない場所で学校に使えるところ」として候補にあがったのが多摩川の河川敷(中学校の現在地)であった。この用地は東京都の管理下にあり、借用できたなら村の意向にあてはまった用地だった。
だが、乞田、貝取、落合地区が強く反対した。候補地が村のはずれで子弟の通学に大変だというのが反対の理由であった。たしかに落合地区の唐木田から候補地まで直線距離にして六キロメートルあり、毎日の通学にしては大変な距離で地区の反対も理解できる。そこでこの反対の解決策としてバスの導入が決まり、京王自動車との交渉の結果、登下校の時間帯にバスを導入することで反対の人たちは納得し、解決の方向に大きく前進した(座談会「発足時の多摩中学校」)。四月十日のことであった。
直ちに用地確保の交渉を開始、四月十六日に陳情書と占用願を地方事務所経由で、都公園課、河川課に提出、受理され、交渉が進んで敷地の整地は失業対策事業で工事することも大体決まった(資四―187)。
五月十二日、それまでの建設準備委員会を解散し、新しく多摩中学校建築委員会を設立し、直ちに建築に向けて進んでいった。五月十五日には建設地内の道路変更、敷地内居住者の移転交渉にはいり、翌十六日には建設敷地内の整地工事を東京都の失業対策事業として実施することを申請した。九月末には起債と国庫補助金を得て新校舎建設は現実のものとなっていった。
しかしながら、補助金と起債額が希望額を下回ったため、やむなく工事を第一期と第二期の二回に分けて行わざるを得なかった。十月二十九日、六教室、小使室、便所合計二四八坪の入札が行われ、桑都建設が落札し、十一月二日起工式、十二月二十日上棟式と工事は順調に進行し、翌二十七年二月二十五日、竣工・検査を完了し、第一期工事を終了させた。六教室は南棟と呼ばれた建物である。
図2―2―3 多摩中学校の新築校舎(昭和26年)
四月より生徒を収容したが全生徒を収容できず、仮校舎と新校舎に分かれることになり、教育上大きな支障をきたすことになった。そこで二十七年度の起債と補助金も未定のまま第二期工事(教室三、特別教室二、自転車置場・物置等)に着手することを決め、四月一日、城所建設工業株式会社と請負契約をし、六月末には竣工、七月四日に検査を終え第二期工事は終了した。
七月二十五日、一年生は新校舎に移動し、全校の職員・生徒が新校舎で学校生活を送るようになった。その日、晴れて新校舎落成式が挙行された。
村長(建築委員長)は式辞を読み、立派に校舎が完成したのは各官庁の理解と協力、それに村民一同の教育に対する熱意の賜ものと感謝していると述べた。最後に校舎の位置に触れ、「此の校舎は村の北東に偏して居るので通学に非常に遠い部落が有るので御気毒と存じて居りますが理解ある協力に依り立派に完成しました事を深く感謝致しまして式辞と致します」と結んでいる(多摩市行政資料)。
新制中学の建設は補助金や起債だけでは到底できず、昭和二十二年十一月十二日付『毎日新聞』にも「生みの悩みの新制中学・各町村・建設や設備に火の車」の見出しで南多摩郡一七か町村の状況を報道しているが、その中で建設や設備の不足分は寄付による以外に方法はなく、一戸当り村によっては少なくて二〇〇〇円、多い村で二五〇〇円平均を拠出して、どこでも悲鳴をあげていると書かれている。多摩村でもこの寄附金を各戸に課したものと思われる。
それはともかく、多摩中学校の新校舎建設に至るまでの経緯について、「学事報告」(昭和二十九年度)はいくつかの項目を列挙しているが、そのなかでも昭和二十二年六月十日の保護者会結成、二十四年四月一日のPTA結成、二十七年十月十二日の校旗制定、二十八年一月十五日の同窓会結成、同年三月三日の校歌制定の各事項は多摩中学校の歴史として記録されるべき事柄である。