教育委員会は、戦後、都道府県や市町村など地方公共団体に設置された教育行政機関である。昭和二十三年(一九四八)七月、教育委員会法が制定され、教育行政の民主化、教育行政の地方分権化、教育行政の一般行政からの独立という教育行政三原則を目指した。
昭和二十三年十月、教育委員会法に基づく都道府県と五大市(横浜・名古屋・京都・大阪・神戸)で教育委員の選挙が行われ、十一月から委員会が発足した。市町村では二十五年に実施する予定であったが、市町村の財政難等の理由から、法改正で二十七年十一月一日に延期された。その間に東京都では二十五年十一月に八王子と立川の両市に委員会が設立された。
教育委員会の設立については、全国市長会や全国町村長会等から反対運動が起っていた。昭和二十七年に南多摩郡町村長会では、教育委員会設置について全会一致で反対の結論を出していた(『読売新聞』昭和二十七年七月二十三日付)。理由は、教育委員会の設置による町村財政の破綻、候補適任者の困難、さらに選挙費用の財政負担などの点にあった。このような反対論の渦の中で市町村の教育委員選挙が実施されたのである。昭和二十七年十月五日が選挙の日と決った。三多摩では五七か町村のうち計二一か町村が定員四名の立候補であったため無競争で当選が決まり、三六か町村で選挙を実施することになった。ちなみに南多摩郡の場合は一七か町村のうち一一か村が選挙を実施した。選挙実施の町村は、共産党が出馬したところであるという(『毎日新聞』二十七年十月一日付)。
多摩村は、定員四人のところ四人が立候補したので、全員当選で村選出の教育委員の選挙はなかったので、当日は東京都教育委員の選挙のみが行われた。多摩村の教育委員は無投票で当選した寺沢茂世、伊藤良忠、寺沼武一郎、杉田正義の四名と村議会選出の富沢政鑒の計五名が決定した。
このようにして教育委員が決まり、互選で伊藤良忠が初代教育委員長となり、多摩村教育委員会も予定通り昭和二十七年十一月一日に発足することになった(多摩市教育委員会編『多摩市の教育』)。教育委員会が行う教育行政は、学校教育、社会教育、文化、スポーツなど自治体の教育関係を管理執行することになった。
昭和二十七年十一月に発足した地方教育委員会については依然賛否両論が続いていた。賛成派は全国教育委員会議と日教組、反対派は全国市長会、全国町村長会、都特別区長会で、反対の理由は地方財政の負担と教育行政の一元化等にあった。
昭和二十七年にサンフランシスコ講話条約が発効した後、教育行政制度の再検討が加えられ、昭和三十一年(一九五六)六月、それまでの教育委員会法は廃止され、代って「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」が制定された(六月三十日公布、十月一日施行)。この法案をめぐっては学界・教育関係団体などから強い反対が示され、国会でも激しい論議が展開されたが、結果的には法案の制定で終った。
改正の要点は教育委員は公選制から任命制にかわり、教職員の任免権は都道府県教育委員会に移され、教育委員会の予算執行等を地方公共団体の長に移し、教育長の任命は委員の中から教育委員会が任命する、とした。この「地教行法」に基づいて、昭和三十一年十月一日から新しい教育委員会が発足した。
発足した教育委員会は五人の委員で組織するとしているが、町村の教育委員会では、条例で定めるところにより三人の委員で組織することができる(第三条)ということから、多摩村では三名と決め、寺沼武一郎・飯島五郎・小林藤雄が任命された。その後、昭和三十六年十月から教育委員は五名に増員された。