村の諸事業と歳出状況

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「貧困な村財政」であったとしても、多摩村は新制中学校建設や国民健康保険の運営(村営の健康保険事業)など、やらなければならない諸事業を抱えていた。住民に密着する「行政サービス」を、みずからの〝力〟と〝手〟で成し遂げていくことの困難さを実感させられてはいたのだが、村政担当者達は問題の解決と事業の遂行のために努力するしかなかった。
 学制改革のなかで誕生した新制中学校をいかにするかについても、苦悩していたようである。歳出に占める教育費は、昭和二十二年度で八八万六三四三円で、歳出合計に占める割合は三三・九パーセントであったが、二十三年度で二二三万八八一三円(三三・七パーセント)、二十四年度で一九九万〇三二五円(二三・八パーセント)、二十五年度で三九九万九六七八円(二九・五パーセント)、二十六年度で六七九万七六一八円(四一・九パーセント)、二十七年度で七三七万三五〇七円(四三・〇パーセント)、二十八年度で七三八万四〇六六円(三七・七パーセント)になっている。そのうちの中学校費は、発足時の昭和二十二年度は七七万一八九九円(うち営繕費六二万三六二七円)となっており、教育費のなかの中学校費の割合は八七・一パーセント、二十二年度の歳出合計額のなかの中学校費の割合は二九・五パーセントであった(歳出合計額は二六一万六五七八円)。建設計画が具体的になった昭和二十六年度の中学校費は五二一万九〇五七円、二十七年度の中学校費は三七七万五六〇八円であった。中学校専用の校舎を早急に建設したかったようなのだが、発足時の二十二年四月には多摩小学校に「間借り」するしかなかった。校地の確保や建設の経過などの詳細については本章第二節にすでに述べられているが、建設費の捻出には苦労せざるを得なかったとのことである。あてにしていた補助金の額が希望額を下回っていたこと、起債が思うようにいかなかったことから、所期の事業計画を進めることができず、建設工事を二期に分けるしかなかった。
 昭和二十四年一月一日に多摩村営の国民健康保険事業が開始された。多摩村国民健康保険条例は、二十三年九月二十七日の村議会において、いったんは可決・成立したのだが、認可申請の段階で文言の不備が発見されたため、十月八日の村議会で訂正されることになった。また、昭和二十五年十月四日には、南多摩東部共立病院組合を設置することが村議会に提案され、可決された。「伝染病予防並びに救治に関する事務を共同処理する」ため、日野町、稲城村、七生村、由木村と共同して、病院を運営する一部事務組合を設置・運営しようというものであった。
 消防とこれに関する事務も村の役割となった。それまでも、地域の住民が団員となり、自分達の住む地域の消防活動にあたっていたのはいうまでもない。昭和二十二年五月一日の消防団令施行後に、多摩村警防団は多摩村消防団にあらためられた。しかし、この段階では、警察の管轄下にある官設消防としての位置づけであった。民主的統制による自治体消防の発足は、消防組織法の施行(昭和二十三年三月七日)をまたなければならなかった。
 管轄地域の治安と秩序を維持することも市町村の任務となった。これは戦後の民主化のなかで決まったことであったが、日本政府の自発的意思に基づくものではなく、GHQの指令によるものであった。二十二年九月十六日、GHQ最高司令官のダグラス・マッカーサーは、警察制度の民主化と地方分権化についての指示を日本政府に与えた。この指示に基づき、警察法が制定された。二十三年三月七日に施行されたこの法律は、市及び人口五〇〇〇人以上の市街的町村に設置される自治体警察と、自治体警察を設置する能力のない町村を対象とする国家地方警察と、警察機構を「二本立て」としていた。前者は市町村の公安委員会が、後者は都道府県の公安委員会が管理することになっていた。昭和二十二年当時の多摩村の人口は七三五六人であったのだが、市街的町村でなかったため、多摩村では公安委員会と自治体警察を設置しなかった。多摩村は昭和二十六年九月末日までは国家地方警察八王子署の、十月からは国家地方警察日野署の管轄下におかれることになった。
 最後になるが、昭和三十二年時点の多摩村役場の組織図(図2―2―4)と役職員の座席配置図(図2―2―5)を提示しておきたい。村議会議員は一六名、村長を含めた役場の役職員総数は三〇名に満たなかったようである。このときには助役は選任されていなかった。

図2―2―4 多摩村役場機構図(昭和32年)
『昭和32年 多摩村事務報告』より。


図2―2―5 多摩村役場座席配置図(昭和32年)
『昭和32年 多摩村事務報告』より。