ニュータウン開発以前の景観

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昭和三十年代前半までの多摩村には農業を主業とする集落が散在し、丘陵地には雑木林が叢生していた。谷戸の低湿地や河川に沿った場所は畑や水田として利用されており、行政資料や新聞などが「純農村」というのも頷けるものがあった。ところが、昭和三十年代後半からの大規模開発は自然の地形を大幅に変えるものであったため、「多摩の横山」と万葉集に詠まれたほどの丘陵地特有の美しい景観は失われてしまった。ニュータウン開発がなされる前の景観を、当時の住民にとっての「あたりまえ」を、現在の多摩市の姿から想起することは実に難しい。「あたりまえ」だと思われていたことは、あまりにも「あたりまえ」のことなので、文書や写真や映像に記録されていないことが多いからである。
 ここでは、南多摩中学校教育研究会『私たちの郷土 南多摩』(昭和三十年三月)を素材にして、昭和二十年代の多摩村の様子を紹介していきたい。この冊子は中学校社会科の副読本であり、南多摩郡と八王子市のあらましや自然、産業、歴史、そして「現在のすがた」を簡潔にまとめている。各論として、「私たちの村や町の姿」の部分があり、多摩村もここで紹介されている。現在の多摩の姿と比較してみると、変貌著しいことに驚かざるを得ない。以下に該当部分の一部を引用する。
この多摩の地は、多摩川沿いに流れ込む海風の影響で四季の気候には恵まれ、年平均一三度位という暖かさで、冬でも零下五度まで下るようなことはあまりないのです。田園は谷間や丘陵の上までよく開墾されて、野菜などは、家の自給自足をはかるために、多角的栽培を行っていて、菜類、豆類を始め、葱なども有名です。村内の山林は、薪炭用雑木として用いられ、櫟が最も多く、他に楢や松、杉を産し、製材の結果、種々その用途別に分けられて、東京にも出されています。由木、由井の方面にかけて、竹が多く、竹細工が盛んであります。果樹類としては、柿が最も多く、その外栗、桃、梨、梅等、風土に適して、多くの花を咲かして居ります。山間僻地をよく利用して次々と開墾されて個人別経営耕地面積は平均五反歩です。その外に漁業があります。鮎は、相模川と並んで有名で、東京や横浜から集ってくる人も少くありません。(一三六―一三七頁)

 掘り抜き井戸のことも紹介しておきたい。この本は、南多摩の特徴的な風景を地理学的に叙述している。多摩村に関わりのあるものとして、掘り抜き井戸が取り上げられている。掘り抜き井戸の深さは、大栗川流域では九〇メートル程であったという。該当する部分を以下に抜粋し、提示する。
 多摩丘陵のハイキングコースを歩きながら目につくことは、浅川に沿った美しい、広い田圃が夏は緑の毛布を敷いたように、秋は黄がねをまいたように浮かんで見えることです。丘陵を北に下ると、浅川の河原に出ますが、その途中にある農家の庭や、田圃の中に、噴水のように水が出ているのを見かけるでしょう。
 京王線の駅で、ハイキングにきた人がこんな話をしていました。「あの家では、水道料金をどれ位、支払うのですか」「出しっぱなしで、まったく惜しいですね」。話しかけられた農家のおじさんは、笑いながら、「いゝえ、あれは自然にふきだすので、金はかゝりません、掘ぬき井戸といってうまい水です。冬も、夏も温度が変らないのでなあ」。「はあ」。その人は驚いたような顔をして電車にのって行きました。
 さて、どうして噴出するのでしょうか。それは、どこでも出るわけではないので、浅川と多摩川が合流する地帯附近や、大栗川の流域に特に多く見られます。又多摩丘陵の南側にも見られるようですが、多くは丘陵の北側の地域である日野町の豊田、堀之内、上田、下田、万願寺、新井や、七生村の平山、南平、高幡、三沢、落川、百草や多摩村の和田、一ノ宮其のほか由木、鶴川等の村にも見られます。(中略)
 この水は飲料水に利用し、余った水は池に入れて魚を飼っているようです。又、場所によっては水田の用水につかっています。養魚の為に三十数本も噴出している所もあります、水不足で困っている田圃にはありがたい自然の恵みです。(一六―一八頁)

 ここにも触れられているが、多摩村では淡水魚の養殖が営まれていた。戦時中、蛋白源供給のため、鯉などの淡水魚の「稲田養殖」や「一般池水面養鯉活用」が奨励されたことと関係があるのだろう。昭和十八年から十九年頃に最盛期を迎えたという。しかし、昭和二十年代後半には、養魚は「流行らなく」なってきていた。長津一郎「東京における淡水魚養殖業について」『東京学芸大学研究報告』第七集(昭和三十一年)によると、昭和二十九年の多摩村の養鱒池は一か所であり、多摩村所在の養鱒業者は一業者を数えるにすぎない。
 この頃の多摩村の産業は、農業中心であった。会社勤めも増えてきてはいたのだが、農業従事者が圧倒的だった。多摩村立多摩小学校『学校のすがた29』(昭和二十九年度多摩小学校要覧)に、その状況を示す格好の資料が載せられている。表2―2―12は、これから作成した。この表には、分離される前の下川原も含まれている。多摩小学校の家庭数の合計は六八五であり、そのうちの三二三家庭が農業を営んでいることが分かる。次にくるのが会社員家庭六五である。聖蹟桜ヶ丘駅の近くの関戸や連光寺の本村は会社員の比率が高いが、圧倒的に農業が多い。この学校要覧の数値は、あくまでも多摩小学校に通学させている家庭のことしか知ることはできないのだが、この当時の多摩村の産業や住民の職業がいかなるものであったのか、また、地域的な差異はどのようなものであったのかを知る手がかりにはなる。
表2―2―12 多摩小学校地区別保護者職業一覧
林業 農業 水産業 鉱業 運輸業 自宅商 自宅工 行・露店商 自由労務 工員 公務員 学校職員 会社員 医師 駐留軍要員 その他 無職
下川原 16 3 1 5 1 3 2 31
関戸 3 35 5 18 3 1 13 10 7 3 14 1 1 4 9 127
本村 26 1 5 2 5 9 10 8 17 2 4 5 94
東部 33 2 1 1 3 5 2 7 3 2 7 66
馬引沢 14 1 1 1 1 18
貝取 24 3 3 2 3 2 1 1 1 4 44
乞田 1 44 2 5 2 6 2 2 2 1 8 75
落合 51 3 1 1 1 1 3 61
一ノ宮 14 3 6 3 1 8 7 42
東寺方 1 24 1 3 3 3 3 6 3 6 53
和田 38 1 1 1 7 1 1 4 2 2 7 65
落川 4 1 2 7
落川(七生村) 1 1
大塚(由木村) 1 1
5 323 13 39 9 2 47 46 32 16 65 2 9 18 54 685
多摩村立多摩小学校『学校のすがた29』(昭和29年度多摩小学校要覧)より作成した。