ニュータウンが開発される前の多摩村の主産業はあくまでも農業であったが、首都近郊の観光地として位置づけられていたことも知っておいてほしい。多摩丘陵は東京の『観光百選』にも選ばれていた。聖蹟記念館は戦前からの名所であったし、多摩丘陵は家族向けのハイキングコースとして、広く知られていた。京王線聖蹟桜ヶ丘駅で下車し、聖蹟記念館から稜線にそって歩き、高幡不動、平山城址と巡り、野猿峠を経て、北野駅を終点としたコースである。丘の上からの眺望は抜群で、武蔵野平はもちろん、富士をはじめとする武蔵・相模・甲斐の山塊を仰ぎみることができた。日帰り可能な交通の便の良い行楽地として、休日はハイカーで賑わったという。
昭和二十五年一月三十一日付の『毎日新聞』に、東京都観光事業審議会の観光事業総合計画についての記事がある。都下の山系を網羅した計画が樹立され、副知事と審議会委員が現地視察をおこなったという。その際、多摩村の関戸地区や聖蹟記念館も視察コースの一部となった。同年九月十四日には都立自然公園条例が公布・施行され(昭和二十五年九月十四日「東京都公報」第六七〇号)、十一月二十三日には、多摩、七生、由井、由木の四か村にまたがる一九五九ヘクタールが、都立多摩丘陵自然公園として設定された(昭和二十五年十一月二十五日「東京都公報」第六九九号)。都立自然公園条例は八か条からなり、都民の保健休養のために一定の区域を定めて、自然の風致を維持・保存し、その開発と利用を図ることを目的に制定された。都内の代表的な景勝地を、都知事が都立自然公園として設定し、保護しようとしたのである。
昭和二十六年(一九五一)三月二十八日には、都立自然公園指定を祝い「多摩丘陵祭」が開催され、さまざまな行事がおこなわれた。多摩、七生、由井、由木の四か村は多摩丘陵観光協会を設立した。東京近郊でハイキングにも好適なこの地帯を世に知らしめるためだという。高野幾三村長の観光地構想も新聞記事から知ることができる。昭和二十八年五月二十日の『毎日新聞』記事の見出しには「観光地以外にテなし」と記されている。
ただ、都立多摩丘陵自然公園は、特別地域の指定がなされなかったため、実際には風致や景観は保護されなかった。ニュータウン開発前にも宅地開発や病院の建設が進められた。昭和三十年(一九五五)七月二十五日付の『朝日新聞』は、都立多摩丘陵自然公園内の連光寺地区に結核病院が建設されることを報じている。多摩村では、ほぼ全村での反対運動が展開されたが、東京都は開設許可を行った。乱開発とミニ開発によるスプロール化が懸念されはじめていた。