この落合青年団、さらに多摩村の青年団の設立の経緯については、公式な記録は残っていないが、峰岸松三が当時の日記をもとにまとめた詳細な覚書である「思い出」「想い起しの記」がある。ここでは、この覚書と青年団機関誌「新生タマセイネン」創刊号の団則(資四―200)、同第四号の青年団事業記録(資四―201)、および設立当時のメンバーからの聞き取りや座談会の記録により、当時の様子を振り返ってみることにする。
落合青年団の設立は、多摩村では初めてであったのはもちろん、三多摩でもかなり早い自主的な動きであった。男女一緒に組織され、団員数は一四八人である。九月二十一日には落合青年団規則も制定された。この規則は戦前の「青年団綱領」をべースにしながらも、郷土愛に根ざし、素朴な自分たちの文章でまとめられている。
ところで、文部省が青少年団の再編成に乗り出すのは、落合での再編の動きが始まったのと同じ昭和二十年九月十五日であった。文部省はこの日、「新日本建設ノ教育方針」を示した。ついで九月二十一日には「青少年団体設置要領」を定め、九月二十五日には次官通牒「青少年団体ノ設置並ニ育成ニ関スル件」を出した。それによれば、新しい青年団は戦前のような中央の統制に基づくものではなく、郷土を中心とする青少年の「自発、能動、共励、切磋ノ団体」であり、平和国家建設をめざすものとされた。しかし、このように戦前との違いを説きながらも、同時に「国体ノ護持」に努めることが強調されているのがこの時期の特色である。これはその後、占領軍主導の民主化政策により、変化していくことになる。文部省に続き十月五日には、東京都教育局が、局長通達で各市町村に青年団体振興協議会の設置を求めた。その結果、三多摩の市町村でも、あいついで青年団が設立されていく。落合青年団はそれら一連の動きに先行していたのである。そして、多摩村全域の青年団の再編へと波及していく。
昭和二十年十月十日、たまたま生活物資や肥料の配分の件で全村から集まった青年たちは、峰岸から落合青年団の話を聞き、多摩村青年団の再編を話し合う。彼らは早速、村役場の寺沢鍈一に相談する。寺沢はまた戦前の青年団の中心的な存在でもあった。ちょうどこの頃、東京都や南多摩郡からの通達を受けていたと思われる寺沢ら村職員の積極的な協力もあり、新青年団設立は急速にまとまる。昭和二十年十二月十六日、多摩村青年団の創立総会が多摩村国民学校において開催された。この多摩村青年団は、町村単位としては、南多摩郡で最初に再編された青年団であった。
これに先立って、十二月十一日には青少年団当時の九分団から男子一一人、女子六人が集まり、役員を決定した。団長には、寺沢の強い提案により、戦時中に青少年団長であった多摩村青年学校長稲葉良仁を選出する。副団長は寺沢である。寺沢主導のこの動きは、先に述べた「青少年団体設置要領」の「町村長、教職員、宗教家、其ノ他有識者先輩」の指導の下に運営すべきとの方針に沿ったものであるといえよう。現に二十一年三月発足の稲城村青年団でも団長に校長、副団長に村役場職員という人事であった(『稲城』八号)。
ところが多摩村では、この正副団長人事に対し、団員から異議が申し立てられる。自分たちは新しい時代にふさわしい、自分たちの自主的な青年団をつくったはずなのにと、旧来の青年団と相も変わらぬ人事のあり方に対し問題提起がなされた訳である。具体的には、昭和二十一年一月十七日、落合支部より、団員の中から団員によって団長を選ぶべきとの団則改正が提案される。一月二十八日の理事者会で団長・副団長の辞表提出の件が協議され、二月三日の理事者会で役員が改選される。出直しの初代団長には、東寺方の杉田稔(当時二二歳)が選ばれた。杉田も復員したばかりであり、府中の農業学校で教鞭を執っていた。父親の杉田浦次は昭和二十年五月まで多摩村の村長であった。副団長に峰岸、乞田の長谷川惣一郎、落合の小泉トミ子が選出される。多摩村青年団の自主性を示す出来事である。
図2―2―6 多摩村青年団創立当時の役員(昭和21年・村役場)
もちろん、自主性を示すといっても、郷土愛の至情を基調とした社会訓練機関として、新生日本の建設に邁進するとしている団則(資四―197)は、文部省の「青少年団体設置要領」に合致し、文部省指導下での活動も続けられていく。また、個別の活動は、戦前をそのまま踏襲した面もかなりみられる。ただこの時期他の地区では、戦前の青年団の名前だけを変えた形でスタートした青年団も多数あり、それらは、二十二年から二十三年にかけて解散や新発足が激しかったという(「青年団体実態調査のまとめ」昭和三十年東京都三多摩青年団体連絡協議会)。そんななかで、多摩村青年団設立の経緯からは、新しい時代に自分たちの青年団を築いていこうとする意気込みとこだわりが強く感じられるのである。