昭和二十年代前半の青年団活動

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再編された多摩村青年団事務所は、当初、青年学校内に置かれ、一六歳から二五歳未満の男女により構成された。団員数は正確にはわからないが、青年団の二十一年度予算にある団費は六二九人分である。一人一か年一円二〇銭の会費で、ちなみに歳入は団費が七五四円八〇銭、村費補助が三〇〇円である。本団のもとに九つの支部(戦前の分団を改称)により構成され、学芸部、修養部、産業部、体育部、家政部などが置かれた。再編当初の活動状況をみると、活動が非常に多岐に渡っていることがわかる(資四―201・202・203)。
 まず、機関誌「新生タマセイネン」の発行が挙げられる。題名に「新生」とことわったこの機関誌は昭和二十一年五月二十日に創刊された。A4判一二ページのガリ版刷りで、学芸部長の小林正治の活躍が大きかった。創刊の辞(資四―199)、団長挨拶など青年団再編にあたっての主張が述べられているが、その多くのページが詩、短歌、俳句の投稿によってうめられている。女子の作品が多い事も注目される。「土に生きる人々」という小説も連載されている。初代の杉田団長の話によれば、実際には占領軍の検閲はなかったが、やはり気を遣っていたという。この「新生タマセイネン」は、昭和二十五年十二月発行の第八号までが確認される。文芸作品のほかに、農村の近代化、農業の機械化、青年団活動等に対しての主張も展開され、青年団の活動を振り返る貴重な資料となっている(資四―口絵・202・203)。
 農産物品評会も盛んで、各種の賞が与えられ、農業技術の発展に励みとなった。農業試験場の視察等も行われた。また、村の供出への協力や、お茶の夏芽(二番茶)を摘んで、非農家の家庭に配るなどの奉仕的活動もしている。貝取支部などでは遺家族、未復員家族などで取入のおくれている農家への勤労奉仕も実施している。
 研修では、従来の読書会に加え、昭和二十一年一月に政治講座、座談会、三月には青年団主催で五大政党立会演説会が開かれた。また、家政部の担当で、女子を対象に料理、生け花、作法講習会、生活改善の講習会なども熱心に行われた。昭和二十三年八月には一夜講習会という泊り込んでの講習会が桜ヶ丘女子学院で開催された。
 演芸大会も楽しみな大行事であった。特に、昭和二十一年四月十四日に開催された各支部合同の農村慰安演芸大会は盛会だった。各支部はそれぞれ、「伊那の勘太郎」、「妻恋道中」、「赤城の子守歌」、「大漁節」などの舞踊や「忠臣蔵」などの劇で参加した(口絵)。演目については、一部には戦前と変わらないなどとの批判もあったようだが、おおむね大好評だった。このような演芸会は本団のみでなく、各支部でも行われた。例えば、落合支部では昭和二十一年十月十六日に平和復興豊年農村慰安芸能大会と銘打って人気役者の一座を呼んできて、村内はもちろん近隣からもたくさんの人々を集めた。また馬引沢支部では、役者を呼ぶ公演の他にも自分たちで映画からヒントを得た創作劇も上演した。いずれも、「花」と呼ばれる祝い金がたくさん集まり、これが青年団の大きな資金となった。ナトコ映写機を借りて、映画会も何度も行われた。ニュース映画、占領軍主導による教育映画と一緒に、娯楽映画も上映され、村民の大きな楽しみとなった。
 体育部の活動も盛んであった。第一回体育大会が、昭和二十一年十月十三日に小学校校庭で開催された。「タマセイネン」三号にはこの時の種目別の優勝者の氏名とその記録が掲載されている。総合優勝は一ノ宮支部であった。その後も定期的に体育大会(運動会)が行われたが、昭和二十二年の運動会では、時代を表す「新憲法音頭」と言う踊りの講習も行われたという(細田ユキ氏聞きとり、図2―2―7)。この他にも、駅伝や卓球大会、フォークダンス、また多摩川河原の砂利穴を埋めて、支部対抗の野球大会などもやっていた。南多摩郡陸上競技大会や三郡連合の大会も昭和二十二年から開始された。これより先、二十一年八月二十日に立川の都立二中で二市三郡青年大会が行われ、下川原支部が「八木節」で出場した(図2―2―8)。

図2―2―7 「新憲法音頭」を踊る青年団員


図2―2―8 「八木節」の扮装をした下川原支部団員

 支部活動もそれぞれ盛んであった。特に落合支部は、独自に機関誌「青春」を発行するなど活発であった。近隣の忠生村の小山田分団や鶴川村の小野路分団と共催の体育大会等も開催した。また昭和二十三年の機関誌の「支部便り」によれば、和田支部では、念願の集会所が出来た事、読書会、害虫駆除や指導標、掲示板の新設・補修を行ったことなどが挙げられ、東寺方支部は戦没英霊のお墓の掃除や、盆踊りの開催が報告されている。この東寺方支部はトランペットなどによる楽団も盛んであり、ハイキング、スキー、写真なども楽しんでいた。