青年団の担い手とその後の青年団

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多摩村に教育委員会が発足するのは昭和二十七年(一九五二)十一月である。教育長代理に小林春夫が就任した。それ以前は役場の職員が十数人であり、人数からいっても財政的にも、社会教育に手がまわる状況ではなかった。それでも青年団に対しては、補助金が出され、行事などで協力関係が持たれていたようである(「多摩市社会教育のあゆみ」『戦後三多摩における社会教育のあゆみ』東京都立社会教育会館発行)。昭和二十八年には青年学級が開設された(資四―204)。
 昭和二十一年六月二十三日、南多摩郡連合青年団協議会発会式が八王子第四国民学校で挙行された。同年九月一日には、その第三回委員会が多摩村青年団の主催で、出席者三〇〇人を集め桜ケ丘保養院において開かれた。さらに、南部連合協議会主催の第一回指導者講習会が、昭和二十二年八月十六、十七日に、高尾山で開催された。ここに集まった一五団体、一三〇人の青年団リーダーたちの間で有効な交流がなされた。多摩村青年団からも多数が参加している。

図2―2―9 青年団指導者講習会

 青年団のリーダーたちは、昼間は農業に、役場の仕事に、家事の手伝いに精を出しながら、夜、役場や学校に集まっては、その運営に努力した。ひとたび行事が行われるときには泊まり込んで準備もした。現在資料等により確認できる初期の青年団の役員名およびその後の歴代団長名は表2―2―13、2―2―14の通りである。
表2―2―13 多摩村青年団役員一覧(昭和21年~27年)
年代
役職     
21年1月~21年12月 22年1月~24年3月 24年4月~25年3月 25年4月~27年3月
団長 杉田稔 杉田稔 朝倉治助 臼井千秋
女子団長 小島コウ* 宮崎ユキ 小泉アサ 森久保志毛子
小泉登美子
副団長 峯岸松三 伊野清晴
長谷川惣一郎 朝倉治助 臼井千秋 相沢昭治
小泉登美子* 森久保志毛子
石坂サト
学芸部長 小林正治 朝倉伸造 大貫喜久治
杉田益枝
修養部長 峯岸松三 根岸重春 小林孝二
小川春子
産業部長 井上康五郎 横倉舜三 寺沢計呉 小形巳好
小形正子
体育部長 小形清 小形清 相沢昭治 相沢昭治
小磯久江
家政部長 高村マキ 小形房子
庶務部長 長谷川惣一郎 長沢高助
小形房子
「新生多摩青年」1号~7号より作成。
注)1 *は中途退任。
  2 ―は不明。

表2―2―14 昭和27年以降の多摩青年団団長
時期 団長
27年4月~29年3月 高橋利一(和田)
29年4月~30年3月 相沢光治(和田)
30年4月~31年3月 高野正次(下川原)
31年4月~32年3月 土方健司(連光寺)
32年4月~33年3月 内田利一(東寺方)
33年4月~34年3月 池田利喜夫(落合)
34年4月~35年3月 〓俊昭(関戸)
35年4月~36年3月 高橋勲(和田)
36年4月~37年3月 小山毅(関戸)
37年4月~38年3月 新倉延一(貝取)
38年4月~39年3月 佐伯辰雄(一ノ宮)
39年4月~40年3月 佐伯三喜夫(一ノ宮)
40年4月~41年3月 田中秀雄(落合)
41年4月~42年3月 伊野功(東寺方)
「多摩町誌」。聞き取りにより一部修正。

 三代目団長の臼井千秋は南多摩連合青年団の団長にもなっている。臼井はのちに多摩市長となるが、この臼井の他にもたくさんの青年団OB達が現在まで多摩市のさまざまな分野の重要な担い手として活躍している。また、青年団は農村の青年たちの貴重な交流の場であった。友情が育まれ、大切な男女交際の場でもあった。この活動の中で一生の伴侶を得た人たちもいた。
 しかし、昭和三十年代半ばになると、青年たちの多くが、都心や近隣の会社や工場に勤め始めた。時間的にも余裕がなくなり、また勤務先での付き合いが彼らの中で大きな比重を占めるようになっていくにともない、青年団活動はしだいに停滞していった。青年団活動が活発でないことについては、昭和四十年三月の町議会においても論議されている。毎年町から出されていた補助金も昭和四十二年度が最後になった。この頃、多摩村青年団は事実上、解散となってしまったと推察される。