文部省は、昭和二十年(一九四五)十月、社会教育局を設置した。翌十一月二十八日には、局長通達「婦人教養施設ノ強化ニ関スル件」(「施設」は「団体」の意味)を出し婦人団体再結成をめざした。これによればその目的は「我ガ国伝統ノ婦徳ヲ涵養スルト共ニ、道義ノ昂揚ト教養向上トヲ図リ、以テ国家ノ再建ニ邁進シ、世界平和ニ寄与スヘキ婦人ノ育成」をすることであり、「地域に基盤ヲ置キ、隣保協和ヲ基調トスル」とされた。そこには大日本婦人会との断絶は基本的にみられず、戦後解散した町会(部落会)にかわる国策協力団体として、行政の下請団体としての地域婦人会の再編がめざされた(千野陽一「地域婦人会」『女の戦後史』朝日選書)。
しかしこの方針は、女子教育の民主化をめざすGHQ民間情報部教育局(CIE)には認められなかった。そこで昭和二十年十二月四日に政府は新たに「女子教育刷新要綱」を出したが、これに対し翌二十一年、CIEのウィード中尉みずから、「民主的団体とは」という手引書をまとめた。そこには会員による役員選挙、会員の討議による問題解決、多数決の原則と少数意見の尊重など婦人団体の民主化が具体的に説かれた。さらにこれ以降はGHQ地方軍政部によって、全国各地で民主的婦人団体づくりが直接に指導されていく。昭和二十四年六月十日には社会教育法が公布・施行され、社会教育団体に対し干渉してはならない、補助金を与えてはならないという原則もうちだされた。
こうした流れの中で、多摩村婦人会の再編は、昭和二十五年、多摩村役場の働きかけから始まる。初代婦人会長の小泉文枝の回想(『多摩市婦人会会報』四号・以下『会報』)によれば、「突然役場から呼び出しを受け、婦人会をつくりたいから会長になるように」といわれ、辞退したが認められず、致し方なく引き受けたとある。小泉は戦前・戦中にわたり、多摩村の小学校の教師を勤めていた。物資もお金もなく、資金面では役場からの援助もなく、多摩村の女性たちからの婦人会再結成への盛り上がりも特別にないなかでのスタートは大変だった。
最初の大きな行事は敬老会であった。車人形の公演などを行い、お年寄りに喜ばれた。当時、京王線以外にバスなどの交通機関のない多摩村で、お年寄りの人数調べに歩き、さらに敬老会当日には、病気の人、歩くのが不自由な人たちのために会場である小学校までリヤカーで運ぶなど苦労が多かった。その他に、身近な生活の改善のため、当時、農林省の生活改善課の指導で行われていた台所・かまどの改良の試みもなされた。環境衛生の向上のために、会員による村のトイレや排水路の消毒も定期的に行われた(青柳トキ子「婦人会活動のあゆみと問題点」『会報』四号)。さらに、料理講習、講演、映画会なども行った。会費は三〇銭で、不足する資金づくりのため石鹸を売ったり造花をつくったりした。第二代会長は小形むめ(二十七年就任)、第三代会長は稲垣茂子(二十九年就任)である。昭和二十九年には、多摩村婦人会会則が作られた。目的として、家庭生活の改善と教養を高める事があげられた(『会報』四号)。
昭和三十一年(一九五六)、やはり元小学校の教師であった高橋友江が第四代会長に就任した頃には、会員数は七〇三人で、一四支部に分かれて活動していた(「昭和三十二年度多摩村婦人会役員名簿」)。会費は月額五円で、支部の活動費にその半額が当てられた。田植え終了の慰安には、小林教育長らの手を借り、各部落で映画会を催した。この頃の敬老会の送迎は農業用のトラックが使われ、費用には、廃品回収や生活必需品の売上利益などを当てた。盆踊りも婦人会が中心となり、青年団と共同で開催した(高橋友江「思い出の婦人会」『会報』四号)。昭和三十一年には南多摩郡婦人協議会が発足した。
村の社会教育の一環として、婦人学級が開設されたのは昭和三十二年であった。婦人の地位の向上、意識改革といった理想は理想とし、実際は多摩村の実情にあったものにということで、料理、洋裁、手芸、お茶、お花などを八月、九月の農閑期に行った。特に料理学級は会員たちの家族にも大好評だった(「思い出の婦人会」『会報』四号)。
この頃の婦人会活動について、文部省は「社会教育一〇年の歩み」(昭和三十三年)の中で、「婦人の地位向上とか、自主性の確立を会則にうたってあっても、事業にあらわれるものは、戦前、戦後も変わりばえしない」と指摘している。ところで、多摩村の戦前の婦人会がどのようなものであったかははっきりつかめていない。戦時中の国防婦人会の活動も、女性みずからが先頭に立って積極的に取り組むというよりも、村の戦時体制の中で補助的な役割にとどまっていたようである。それに対し、役場から声をかけられてのスタートだったとはいえ、再編された多摩村婦人会は女性が主体となって活動している点で、たとえ、平凡であったとしても意義あるものであったと思う。そしてさらに、より積極的な、昭和三十年代初めの多摩村における身近な問題解決への三つの取組みを見ていく事により、婦人会活動が生活に密着し、必要とされていた時代を振り返ってみたい。