まず最初は、昭和三十一年(一九五六)に高橋会長のもと、生活簡素化の運動として行われた花嫁衣装の貸出しである。それ以前からも冠婚葬祭の貸衣装制度はあったようだが、この時は、個人ではなかなか用意出来ないような上等な花嫁衣装を揃えた。江戸褄、帯から長襦袢、小物、草履までの一式を四万円で購入した。うち半分は多摩村が補助してくれた。三十一年十月、貸出しの規約(資四―205)が作られ、貸出しが開始された。
これについては、昭和三十一年十月四日付の朝日新聞に写真入りで記事が掲載された。「花嫁衣装もできる/結婚簡素化に乗出した多摩村」という見出しではじまる記事によれば、まえまえから結婚式の簡素化を考えていた婦人会は、三十一年七月、約三〇〇人の青年団員に簡素化と貸衣装についてアンケートをとったところ、全員が賛成との回答を得た。これに力を得た婦人会は、八月に総会で、「衣装は持回り、里帰りは廃止し、結納金は最高二万円、ハカマ代は廃止、披露宴一人五〇〇円以内、式、宴会の時間は最長二時間……」などを決議したとある。衣装の管理はなかなか大変だったが、貸出しは大変好調で、これにより婦人会の財政も潤った。また、婦人会活動自体でも、会服をつくり、和服の上に羽織って会合に出席した。服装に気を使わないで済むようにという女性らしい知恵であった。
二つ目は、生活改善の活動が支部でも地道に熱心に行われた一例として、のちに第五代目の会長(昭和三十五年就任)となった相沢コウの聞き取り調査から、馬引沢支部の活動をみていくことにする。相沢は七生村の百草から昭和の初め馬引沢に嫁ぐ。当時の馬引沢の生活は同じ多摩地域であったが、実家に比べ、かなり不便なものであったことに驚き、また当時としては珍しい恋愛結婚であったことで、古い考え方の中で苦労したことも大変多かった。相沢の実家の義理の姉である守屋こうは身近な生活改善で実績を挙げ、「守屋式かまど」の考案者として有名だった人物で、昭和二十六年にはGHQ統司令官のリッジウェイの訪問を受けたりしていた(守屋こう『野の道』)。そんな影響もあってか、相沢は馬引沢支部長となり身近な生活改善に取り組んでいく。
馬引沢支部の初代支部長は小形むめだった。小形は小学校の教師を経て、やはり、恋愛結婚で馬引沢に嫁いだ人で、保健婦を呼んでの産児制限指導などを行っていた。相沢はそんな小形に協力し、また小形が昭和二十七年に会長になってからは支部長を受け継ぎ、栄養指導などに加え、生理帯の販売も行った。生理用品のCMが当たり前に流れる現在とは全く違う時代である。農作業の合間をみての相沢の自転車での配達は、皆に喜ばれ、啓発と資金稼ぎに有効だった。生地をまとめて安く買い、皆でモンペを作り、販売するなどもした。この地域の女性たちはそれまでは着物をはしょりあげたり、男ものの下着を着たりして農作業を行っている人がまだ多かったという。モンペづくりには、資金稼ぎということだけでなく、農村女性の作業着の改善という意味もあった。また当時、農家の嫁はなかなか外に出られなかったが、婦人会だというと、近所から無理解と言われたくなかった姑の許可が得られたという。相沢がのちに会長になってから、婦人会の伊豆一泊旅行を行った時は、初めての経験に皆感激していたそうである。