まず、土地は大蔵省関東財務局に働きかけた。多摩川の河川敷一三〇坪の払い下げを得るためである。「またあの女がやって来た」と担当者が逃げ出す程せっせと通ったという。その努力が実り、昭和三十二年四月、大蔵省管財課と東京都建設局より払い下げの内諾を受ける。
次は建物である。手持ち資金は三〇〇〇円だけであった。同年六月の「関戸河原クラブ設立後援会趣意書」が残っている(資四―206)。寄付集めの依頼である。家計から無理なく捻出できる金額という事で、一か月五〇円ずつで、各戸五〇〇円ずつを集める事とした。集金は戸別訪問で夜遅くまでまわった。なかには「よそものが自分のために家をつくるつもりか」などという心ない中傷もあったというが、関戸河原地区住民だけでなく他の支部の婦人会員からの協力も得られ、集められた三〇〇人余の寄付は三七万円にものぼった。その他に、廃品回収、雑巾作り、さらには共同でたんぼを借りて、米を耕作し収穫をあげた。この支部の会員たちは非農家世帯が多く、初めての農作業という人も多く、大変だったという。それでも当時の写真(図2―2―10)には会員たちの笑顔があふれている。三〇〇〇円からスタートしたこの運動も、最終的には四三万円が集められ、一七坪の関戸河原クラブが設立された。昭和三十三年四月二十七日、落成式が行われる。会員が自分たちの力で獲得した活動の場所であった。昭和三十三年四月二十四日付で朝日新聞は「婦人会が会館をつくる/多摩村の関戸/廃品回収や稲作り」、読売新聞も「婦人の力で集会所造る」と、それぞれ写真入りで報じた。
図2―2―10 慣れない農作業にとりくむ関戸河原支部会員(昭和32年)