その後の婦人会活動

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このように、戦後の村の貧しさや古い慣習や考え方の中で、身近で切実な問題の解決に懸命に取り組んで来た婦人会活動も、昭和三十年代後半になり、生活も安定してくると、活動の質に変化が生まれてくる。ここでは、『会報』四号、婦人会関係者の座談会の記録と小林八千代、相沢花子、青柳トキ子からの聞き取りにより、ふりかえってみる。
 昭和三十八年(一九六三)、第六代会長㟁ハナ(昭和三十七年就任)の死去により、第七代会長に小林八千代が就任した頃、多摩村は新生活運動のモデル地区となって、夜間の駅前清掃などを行った。昭和三十九年には『婦人会報』第一号を発行した。また昭和四十年には交通事故禍にそなえ、町民の血液型登録を実施、一七三五人が登録した。同時に実施した成人病検診も好評だった。パーマ代などをはじめとする物価値下げ運動も成功した。この年には、稲城町婦人会と共同で、さらに昭和四十一年からは単独で、生活学校も開設された。学習のテーマも町政、郷土史、食品に関するもの、健康、税金と多様である。また、すでに昭和三十五年頃から始められていた島田療育園での奉仕活動も続けられていた。なお婦人会は、初代の小泉、四代高橋、七代の小林の三人の会長を、村議会に議員として送り出している。
 昭和三十九年(一九六四)一月、農協婦人部が設置される。農協婦人部は生活購買事業を中心に貯金、料理講習、研修旅行等を行った。初代部長には、婦人会会長を退いていた高橋友江が就任し、六〇〇人の部員によって組織された(青木節子「多摩市農協婦人部」『東京都農協婦人組織協議会三十年史』)。本来、婦人会とは異質な目的を持つ団体として成立しながらも、農協婦人部は婦人会と活動もメンバーも重なる部分を多く持つ事となる。しかも、農協婦人部は昭和四十六年までは会費も徴収せず、また、何か活動をするといえば、農協の職員がすべて段取りしてくれた。そんな点にひかれてか、最初は両方に入っていたが、婦人会はやめて、農協婦人部のみにするという人が、しだいに増えていった。
 このような農協婦人部の攻勢、そして、高度成長のもとでの社会の変化、さらには「多摩村」から多摩ニュータウンを擁する「多摩市」への変貌の中で、昭和四十年代の婦人会は難しい時代をむかえていく。この時期も第八代小紫達(四十二年就任)、第九代杉田よ子(四十四年就任)、第一〇代相沢花子(四十六年就任)ら、各会長を中心に、新たな試みがなされている。昭和四十七年には、婦人会の目的を見直し、地域社会の親睦と交流の促進、福祉活動への協力、多摩の緑の保全を三本の柱とした。昭和四十五年からは、親睦のため運動会を始めたり、部活動も取り入れ、書道部、茶道部などの趣味のグループもつくった。さらにニュータウン住民への入会の呼びかけもなされている。
 昭和四十八年(一九七三)には市の要請で、多摩市婦人団体連絡協議会が発足した。婦人会、農協婦人部のほか、常盤会、土曜会、第二月曜会、仲よし文庫、多摩・百草の各生活学校、多摩女性コーラスなどが参加した。また同じ四十八年からは、市の働きかけに応えて日本赤十字奉仕団に参加した。二四〇人余が婦人会員であり、奉仕団員であった。奉仕団の委員長は婦人会長の相沢花子が兼任した。
 身近な問題解決からスタートした婦人会も、この頃にはさらに女性の地位向上・男女平等をめざした研修会に参加したり、勉強会を実施している。昭和五十年(一九七五)は国際婦人年であった。この年には、婦人会が二五周年を迎えたのを記念し、しばらく途絶えていた『会報』の四号が相沢会長を中心に刊行された。これは六五ページの冊子で、先に引用した様に、歴代の会長あるいは会員たちの回想が多数寄せられた(図2―2―11)。

図2―2―11 婦人会会報

 しかし、このようなさまざまな努力にもかかわらず、昭和五十年の会員数は二七五人となり、昭和三十二年の七〇三人の四割にまで減少している(表2―2―15)。社会の変化により、それまではPTA活動が終われば婦人会活動という流れだったのが、子供の手が離れれば働きに出るという人が多くなったことも一因であった。講演会も、福祉、公害、食品添加物など、時代のニーズにあった問題をとりあげてはいるが、それも、テレビなどにより大量の情報が提供されるなかで、以前のように人を集めることができなくなっていった。結局、多摩村婦人会は昭和五十四年(一九七九)三月、その幕を閉じる事になる。第一一代で最後の会長となった堤敏子(昭和五十三年就任)の「残念ながら……」との解散の挨拶文を最後に、その活動を終了した。そんななかで、和田支部だけは和田婦人会として、現在も活動を続けている。さらに、日本赤十字奉仕団の活動も、婦人会の解散後も継続され、献血・防災運動などを行い現在に至っている。この活動にはニュータウン地域住民の参加も多く、平成十年度の団員数一八〇人余の三割を占めている。
表2―2―15 多摩村婦人会支部別会員数
支部名 会員数(人)
昭和32年度 昭和50年度
関戸 64 39
連光寺 101
東部 39
馬引沢 39 7
永山 34 18
瓜生 12
貝取 18
大貝戸 15
乞田 39
落合 41 43
和田 72 84
関戸河原 129 52*
東寺方 61 15**
一ノ宮 39 17
会員総数 703 275
昭和32年度多摩村婦人会役員名簿、役員会員名簿一覧(「会報」四号 昭和50年)より作成。
注)*は河原支部、**は有山支部。