下川原地区は「本村の東北端多摩川を越へて府中市の中に突出して」いる地域であり、「本村への連絡にはすべて府中市地内を経て約一時間、多摩川を越へてなされるため、雨の日に、又風の日に、児童の通学等は非常に困難をきわめ、加へて近年自動車の交通量は著しく増加したため、その危険を思う父兄の心配は一通りなら」ぬものがあった。町村合併促進法にも刺激され、昭和二十九年二月十七日、下川原地区住民の「大多数の署名を以て」府中市への編入を希望する旨の請願書が村議会に提出された。
多摩村では昭和二十九年二月二十三日の臨時村議会で、連光寺・下川原地区より提出された離村の請願が審議された。しかし、町村合併がすすめられている状況の下で、多摩村としての方針も決定されないうちに下川原地区が離村することには反対であるとの意見が強く、結論に至らず、総務委員会に付託することになった。その後、各地域より委員を選出して多摩村合併研究委員会が組織され、その委員会で数回の協議がもたれ、下川原地区の離村の意志の堅さが再確認された。
昭和二十九年五月一日の多摩村議会全員協議会で、下川原地区の離村が「地形上やむを得ず」との理由により全員一致で承認された。これを受けて多摩村長は、昭和二十九年九月十一日の東京都町村合併案に対する答申において、大字連光寺の下川原地区の府中市への編入については「府中市と共に了解済である旨」を答申した。このときの村長は下川原地区在住の高野幾三であった。その後、行政手続きを完了し、昭和三十年(一九五五)四月一日、官報告示により下川原地区は府中市に編入された。このように、下川原地区の離村・府中市編入は、村内の話し合いを通しての合意形成を経て、円満に行われたのである。
図2―3―1 境界変更区域図(昭和30年4月1日施行)
「昭和30年4月1日施行境界変更区域図(市町村関係)昭和30年2月現在」(東京都公文書館蔵)より作成。