この勧告は、新市町村建設促進法にもとづくもので、「この勧告を出してから九十日たっても合併申請がない場合、知事は必要があると思えばその市町村に住民投票をさせ、過半数の賛成があれば合併申請があったものとみなせるという強い裏づけをもっていた」(『朝日新聞』昭和三十二年三月二十日付)。新聞記事には「勧告に従わない町村は〝未合併町村〟という刻印を打たれ、国や都の補助、起債の面で冷遇されることになりそうだ」とも書かれている(『朝日新聞』昭和三十二年三月二十日付)。
勧告と同時に、都は副知事名で「町村合併の完遂はあらゆる施策に先行する基本的なものだから、住民福祉の増進のためにもぜひ実施されるよう」との通達を出した(『朝日新聞』昭和三十二年三月二十一日付)。
新市町村建設促進法による都の勧告について、多摩村長は「論議はいいつくされた問題だが、勧告を受けたため、もし一般住民の世論が変われば考え直すこともあろう」との談話を発表した(『朝日新聞』昭和三十二年三月二十一日付)。
昭和三十二年(一九五七)三月二十八日の多摩村議会は、合併反対という従来の立場を確認した。さらに、五月二十九日と六月十四日に開催された由木村との両村議会合同協議会では、両村議会の申合せ事項が決められた。それは、「多摩、由木両議会は両村のみの合併に対して終始反対して来たのであるが、茲に知事の勧告に接したことは遺憾にたえないところである」というものであった(資四―214)。
これに対する東京都の動きをみると、新聞には都の行政部長が南多摩地方事務所長らと、合併問題に関連して多摩村と由木村を六月五日に視察する予定であると報じられている(『朝日新聞』昭和三十二年六月四日付)。この時期に、東京都の南多摩地方事務所は合併推進の文書を村民に配布した(図2―3―2、資四―213)。いっぽう多摩村は、昭和三十二年八月に「町村合併に関する経過報告」を出し、合併に関する都との交渉、由木村との折衝について村民に詳細に報告した(資四―214)。
図2―3―2 東京都の町村合併をすすめるお知らせ
昭和三十三年(一九五八)二月、町田市が誕生した。町田町、鶴川村、忠生村、堺村の四か町村の合併によるものであった。同年十二月二十五日、都の合併案に反対する多摩村、由木村、日野町、稲城町によって合併研究協議会が結成され、四か町村の合併をめざして活動することとなった(『朝日新聞』昭和三十三年十二月二十六日付)。構成メンバーは、首長、正副議長、議会の各常任委員長ら二八名であった。翌三十四年一月二十日には第二回の協議会が開かれ、会長に日野町長、副会長に他の三町村長を選んだ。新聞はこの動きを「都の合併A案に反対の議決をしている四か町村が新市町村建設促進法の一部改正から急速に合併気運が盛り上がり、この協議会の結成となったもの」と報じた(『朝日新聞』昭和三十四年一月二十一日付)。昭和三十四年(一九五九)三月時点で南多摩郡における町村合併の動静をみると、未合併は、日野・稲城両町と由木・多摩両村の四か町村だけとなっており、残された四か町村の動きが注目されていた。