昭和三十六年六月十八日付の『朝日新聞』は「町村合併 都の働きかけ終わる」との見出しで、六月十七日に開催された都新市町村建設促進審議会が「都下の町村合併に都としては終止符を打つことをきめた」ことを報じている。この時点で「知事の合併勧告をけって残っているのは調布市と狛江町、八王子市と日野町、由木村と多摩村の三組」のみであった。
このころ、由木村では多摩村と隣接している人口約六〇〇人の大塚地区が、分村して多摩村と合併することを希望する請願を村議会に提出していた。昭和三十六年六月二十九日に開かれた由木村議会で、この請願は九対四で否決された(『毎日新聞』昭和三十六年六月三十日付)。多摩村に隣接している地域での多摩村との合併を望む声は、その後も消えることがなかった。しかしながら、この年の十月、由木村議会は「八王子市(若しくは日野町を含む)、広域合併早期実現に関する請願」を採択した(『八王子市史』附編)。そして昭和三十七年(一九六二)五月十八日には由木村議会協議会において正式に八王子市への合併申し入れが協議されるに至ったのである。(『八王子市史』附編)。
昭和三十七年(一九六二)八月十四日、多摩村、由木村、日野町、稲城町によって構成される東部四か町村合併研究協議会が多摩村で開催され、「都市計画案の作成、財政調査の実施などを決めた」(『朝日新聞』昭和三十七年八月十五日付)。これに続いて九月二十四日に稲城町で開かれた協議会について『毎日新聞』は、合併の気運が高まったと評価した。「先にできた原案について話し合った結果、ほぼ意見が一致、来春までに実現したいといっている」(『毎日新聞』昭和三十七年九月二十五日付)と。ところが、『朝日新聞』が翌年になってから経過をまとめた「波紋呼ぶ四か町村合併」という記事によれば、このときの会議では「日野町長が『由木村との合併を考えている。近く市制も施行したい』と発言したことから足並みは乱れた」と伝えている(『朝日新聞』昭和三十八年一月六日付)。
日野町長からの働きかけを受けて、昭和三十七年十月二十五日、由木村の臨時村議会は日野町に合併を申し入れることを決議した(『朝日新聞』昭和三十八年一月六日付、『八王子市史』附編)。翌日、「村長・議長連名をもって日野町に合併の申し入れをした」。いっぽうこの同じ時期、日野町は自治大臣に対し「市の要件中人口定義改正促進に関する陳情」を提出していた。これについて、八王子市議会『八王子市議会史 記述編二』第八章は、「当然このことにより、日野町は単独市制施行をねらったものであったといえよう」と書いている。事実、昭和三十八年(一九六三)二月八日に日野町で開かれた東部四ケ町村合併研究協議会の席上、「日野町長が『はっきり由木と合併するといったことはない』と発言、これに刺激された由木側が『話がちがう』と、つめよる一波乱があった」(『朝日新聞』昭和三十八年二月十日付)。由木村からの合併申し入れについての日野町の回答は、三月十五日に出された。それは、「日野町議会は東部四ケ町村大同合併計画を前提として由木村との合併を、稲城町・多摩村との特に密接なる連繋と了解のもとに研究促進するものである」というものであった(『八王子市史』附編)。この日、日野町議会は「日野、由木の合併を積極的に推し進めていく」ことを議決した(『毎日新聞』昭和三十八年三月十六日付)。
しかし昭和三十八年十一月三日に、結局、日野町は単独で市制を施行した。そこで、昭和三十九年(一九六四)一月二十日、由木村議会合併研究促進委員会は「八王子市に合併を申し入れることを七対六の小差で可決した」。翌日、由木村長は八王子市に合併の申し入れを行った。一月二十五日、八王子市議会協議会は由木村からの合併申し入れの受け入れを決定した。
こうした由木村の動きに対して、三月二十一日、多摩村の村長と村議二〇名は「連名で『由木村は東部四か市町村大同合併計画にもとづき日野、稲城、多摩三市町村と合併すべきである』という声明を発表した」(『毎日新聞』昭和三十九年三月二十二日付)。由木村では、八王子市との合併か日野市との合併かをめぐって激しい抗争が繰り広げられる。結局、三月二十九日の住民投票で、決着がつけられることとなった。その住民投票は、八王子市との合併に賛成が一九一六票、日野市との合併に賛成が一五一〇票という結果になり、由木村住民は八王子市への編入を支持した。同年八月に由木村は八王子市に編入された(八王子市議会『八王子市議会史 記述編二』第八章)。
こうして、都が進めてきた多摩村と由木村との合併、そして東部四か町村が推進してきた広域合併の計画は、いずれも失敗に終わり、多摩村は単独で村政を続けることになった。また、由木村の東部地域(大塚・東中野・堀之内・越野・別所)の分村・境界変更問題は、その後も論議の的となった。
図2―3―3 分村を求める立看板(由木村松木地区)