昭和三十九年一月十一日、多摩村議会の全員協議会において、全員一致で「本件は住民の世論から判断するに遅しの感が深い、よって直ちに町制施行にふみ切るべきである」との結論に達した。村長は一月二十五日、町制施行の申請を行った。これを受けて東京都南多摩事務所長の菅原善助は、都への進達のために書いた意見書のなかで「村当局が京王桜ヶ丘団地の開発に伴い積極的に都市づくりをはじめた」ことや「都心まで電車で三〇分」という交通機関による地の利などをあげたうえで「驚異的発展が見込まれる」と後押ししている(資四―272)。
こうして多摩村は昭和三十九年(一九六四)四月一日に町制を施行した。町制施行の実現までには「人口の面で国勢調査を以つて一万人以上とすると言う大きな壁が都条例に」あった。このため村としては、地元選出の「古谷都議会議員始め三多摩出身の都議会議員、東京都の行政部の皆様等にお願い」し、「住民の熱望を汲み取って」もらって「三月三日の都議会にてこの壁を破って」町制施行を実現することができたと、伊野米雄議長はのべている(『多摩村広報』昭和三十九年三月二十日付)。
ここで、当時の町勢を「町制施行申請書綴」(資四―273)によってみておくと、一月一日時点での住民登録人口は一万二七五二人であった。住民の職業をみると、「商工業」に従事している者が四六一二人(総人口の三六・二パーセント)を占めており、「農業」の二八一六人(二二・一パーセント)を上回っていた。昭和二十九年(一九五四)に出された「東京都町村合併計画案答申」(資四―208)によれば、昭和二十八年(一九五三)時点での人口は七七九九人、人口密度は四一〇であり、「純農村で住民の大半が農林業に従事している」という状態であった。両者を比較してみると、この十年間の変化が大きいものであったことがわかる。なお、多摩町制施行時における公共施設等の整備状況は、表2―3―1の通りであった。
鉄道 | 京王帝都電鉄 |
村内設置駅名 聖蹟桜ヶ丘 | |
バス | 京王帝都バス、神奈川中央バス |
11路線で、1日の運行台数 138 | |
ハイヤー | 京王ハイヤー桜ヶ丘営業所 |
所有台数 14台 | |
電話 | 加入戸数 288戸 |
武蔵府中局加入、自動式 | |
戸数2949なので、ほぼ10戸に1戸の割合 | |
有線放送 | 加入戸数 850戸 |
(多摩村農業協同組合施設) | |
郵便局 | 「集配特定局」 |
消防団 | 分団数 9 団員数 295 |
消防ポンプ自動車 1台 | |
警察 | 警視庁日野警察署管内 |
多摩部長派出所 1か所 | |
巡査駐在所 4か所 | |
教育施設 | 村立中学校 1 |
村立小学校 3(分校1を含む) | |
私立幼稚園 1 | |
町制施行の日には聖蹟桜ヶ丘駅前など八か所に記念のアーチがとりつけられ、記念の花火が打ち上げられて、有線放送で富沢村長と伊野米雄議長が祝辞を述べた(『朝日新聞』昭和三十九年三月三十一日付)。記念パレードも実施され、役場の公用車や農協のトラックが「祝町制多摩町」の横断幕を掲げて町中をまわり、小学生が日の丸の手旗を振って歩くなど、盛大に町制施行が祝われた(図2―3―4)。
図2―3―4 町制施行を祝う農協婦人部の女性たち
新聞記事には、町制施行にさいして「村役場総務課では『村の将来の課題は、ふえる人口に対して教育施設や水道、下水道をどのように解決していくかにかかっている。住宅建設におくれをとらないよう考えていきたい』と、町制にあれこれチエをしぼっている」と報じられた(『朝日新聞』昭和三十九年三月三十一日付)。都市化に対応するという重い課題を前にして、伊野議長は、「多摩町を隣接の市や町に負けない様に立派に育てて行くには今後幾多の困難とたたかい一層の努力を重ねなければならないと存じます」と決意を表明した(『多摩村広報』昭和三十九年三月二十日付)。