敗戦直後の時期について、桜ヶ丘保養院の医師であった市川達郎と辻山義光の二人は当時の多摩村が「無医村」であったと回想している。市川達郎は、『南多摩医師会雑誌』第一号に掲載された「且ての無医村奮戦記」で、次のように書いている。「小生が桜ヶ丘保養院に赴任したのは、終戦直後の八月二十五日頃でした。その頃の保養院は、陸軍に半分とられていたのを返還してもらい、一応の静けさをとりもどしていた所でした。医者は戦時中静岡の病院長であったが焼出されてしまった辻山先生と小生の二人で戦後の診療が始まったわけです。保養院のことはさておき、当時の多摩村には開業医が一人もおらず、いきおい我々が村の医療にタッチせざるを得ない状況でした」(南多摩医師会『南多摩 南多摩医師会創立七十周年記念特集号』)。辻山義光は『南多摩医師会雑誌』第一号に掲載された「多摩ブロックを追憶して」のなかで、次のように書いている。「私が多摩村に参りましたのは終戦の年の暮れでした。住むに家なく、時の村長の時の尽力で、荒れ果てた神社の社務所に入居しました。私が医者であることを聞き伝え、私が外出する時間より早く、早朝から患者が押し寄せました。無医村状態であったので、診療せざるを得ませんでした。その内に、桜ヶ丘保養院でも、厚生荘でも門戸を開放されましたし、青木先生も開業され、村出身の杉田先生(故人)や林先生(故人)も少しづつ診療されるようになりました」(同上)。また、桜ヶ丘保養院企画部四〇年史編集班編『桜ヶ丘保養院四〇年の軌跡』(昭和五十六年)所収の「保養院生活四〇年」においても、市川達郎は同様のことを書いている。「僕は、終戦まもなくの八月二十三日より勤務しはじめた」。「当時の多摩村は、無医村であった。又、道路事情も悪く、勿論、自動車もない。そんな関係で、多摩村の住人は、医療に関しては保養院の医者を頼りにしていた。自転車でよく往診したものである」と。
しかし、この二人のいうように「無医村」だったのであろうか。戦前から、東寺方地区には、「寺方で一番古い」といわれる杉田家の流れをくむ杉田武義や、昭和八年に沼野元章に代わって東寺方で開業した林平一という医者がいた。彼等は学校医として、村医として地域医療に積極的に関わった。杉田武義は、学校医としての活動を全国に先駆けて行った。その活動によって、多摩国民学校医の杉田は、帝都教育会から教育功績者として昭和十八年(一九四三)六月に表彰された(『毎日新聞』昭和十八年六月十九日付)。孫の杉田誠の話によると、杉田の「守備範囲」は、東は稲城の大丸・西は柚木の鑓水・南は小野路・北は府中の四谷であり、この広い地域を人力車で往診しており、この人力車は昭和三十二年まで使用された(東寺方有山地区座談会)。また、一編十章五節でふれたように戦時下の多摩村は医療への取組においては東京府のなかでも先進的地域であった。敗戦までの時期の多摩村を「無医村」とみることはできない。