すでに前章でふれたように、戦後村政の中核に位置づけられていたのは、次の三つのものであった。一つは、交通網の拡充による豊かな生活の実現であった。二つめは、観光を中心とした村づくりであった。そして、三つめは、村民の生命を守る施設の充実であった。昭和二十五年(一九五〇)十月四日の村議会は、「伝染病予防事務を共同処理する」ための東部共立病院を、日野町、七生村、由木村、稲城村、多摩村をもって設置するという議案を可決した(資四―181)。所在地は、日野市多摩平で、病棟一棟、ベッド数二〇床の病院であった(『多摩町誌』六六二貢)。
同じ年、多摩村隔離病舎が廃止された(資四―243)。この隔離病舎は、昭和三十七年(一九六二)六月の時点まで「内部施設は見送りのまま、患者を収容する事態もなく」という状態であった(資四―243)。同月の村議会で、「今般東部共立病院の充実に伴い用途廃止をするものである」という廃止案が即日原案可決された(資四―243)。廃止処分となった四五六坪の土地は、京王桜ヶ丘団地の建設のために、京王帝都電鉄株式会社に払い下げになっている。