多摩村診療所の設立

743 ~ 744
昭和二十七年(一九五二)十月二十四日の村議会は、多摩村国民健康保険直営診療所および附属医師住宅を新築する議案を「即日原案可決」した(資四―183)。
 これに対し、八王子市南多摩郡医師会に加わっている医師たちは昭和二十七年(一九五二)十二月に、国保診療契約辞退の措置をとった。「多摩村の皆様」と題する直営診療所設立に反対するビラが残されているが、そこでは、次のように説明されている。「私共は直営診療所設立は赤字財政を招き国保そのものを危くするものであり、本村のように多数の医療機関のある所では設立の必要がないという理由でその計画に反対して来ました。八南医師会及び地方事務所厚生課長も事態を憂慮し調停の労をとられました。而し村当局者は調停に耳をかしませんでした。その結果八南医師会としても国保診療契約辞退の措置をとらざるを得なくなったのです」(多摩市行政資料)と。
 このビラに名前を連ねていたのは「青木医院 青木忠房、関戸診療所 北村慶樹、厚生荘 三木征治、桜ヶ丘保養院 野口晋二、多摩診療所 弘中進、内田五郎、多摩医院 林平一、桜ヶ丘診療所 辻山義光」の医師たちである。桜ヶ丘保養院にいた辻山義光は、この時点では開業していた。辻山によれば、「私自身は開業する考えを持っていなかったのですが、村に国保が出来、国保の患者を見るようになったので、やむなく開業届を出しました」という状況であった(辻山義光「多摩ブロックを追憶して」『南医誌』一号・南多摩医師会『南多摩 南多摩医師会創立七十周年記念特集号』)。
 こうした地元医師からの反対の声がおこるなかで、多摩村国民健康保険直営診療所が昭和二十八年(一九五三)四月六日に開設した。多摩村貝取に置かれ、診療科目は外科・小児科・内科であった(『多摩町誌』)。所長をつとめる医師については、辻山医師の回想によれば、「やがて多摩村では国保直営診療所が出来、内田先生(現在中河原)、中村先生、山本先生が相ついで就職され」たと書かれている(辻山義光「多摩ブロックを追憶して」『南医誌』一号・南多摩医師会『南多摩 南多摩医師会創立七十周年記念特集号』昭和六十一年、所収)。また杉田誠の回想でも、「初代の所長が誰だったかな、内田先生でしたか、二代目が中村先生でした」となっている。(東寺方有山地区座談会)。

図2―3―5 開設当初の多摩村診療所