結核病院建設反対運動

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昭和二十九年(一九五四)十一月、三鷹市の久保医師が多摩村連光寺地区に結核病院を建設するという計画が明らかとなった。昭和三十年になって、村民の反対署名、村議会の反対決議、村民大会、反対期成同盟結成という形で、反対運動が強まった。四月に結成された反対期成同盟の会長には、村長が選ばれた(資四―216・218)。抗議行動が続くなかで建設工事は進行し、昭和三十年六月上旬には病棟が完成した。七月十三日、多摩村結核病院建設反対期成同盟会総会が開かれ、参加した村民約二〇〇人が病院に押しかけ、警官も出動する騒ぎとなった(『毎日新聞』昭和三十年七月十四日付)。
 多摩村には、すでに昭和十四年七月十六日に私立厚生荘結核療養所が開設されており、結核関連施設そのものは、受け入れられていた。この反対運動も、結核病院そのものに反対する運動ではなかった。絶対反対の立場を打ち出していた結核対策同盟が出した「声明―結核病院問題の真相―」をみても、「当方は結核病院そのものに反対するものではない。他に影響の少ない場所で開設されたい」という方針であった(資四―218・図2―3―6)。

図2―3―6 結核対策同盟会の声明

 では、何故この病院建設に対して、反対運動が全村的に展開されたのであろうか。『毎日新聞』(昭和三十年七月十四日付)によれば、七月十三日の多摩村結核病院建設反対期成同盟会総会は、「『多摩村の発展を阻害し観光地を汚染する久保病院の建設に断固反対する』むねの決議文」を採択した(資四―216)。さらに、結核対策同盟が出した「声明―結核病院問題の真相―」では、「我らは桜ヶ丘の中心部に結核病院の建設されることに絶対反対するものである。桜ヶ丘は古来の名勝史蹟で、殊に明治大帝は四たびまでも御清遊なされた地であり、近くは都立自然公園にも指定され、真に本村の至宝である」「この中心部に結核病院を建てるなどは、全く聖地を汚し、自然公園を亡ぼすものだ」(資四―218)と、連光寺が「聖地」であるが故に建設に反対するという立場を鮮明に打ち出した。
 このように、この反対運動は連光寺地域に結核病院をつくるなという運動であり、結核病院そのものに反対する運動ではなかった。村内の他の地域なら可であるとの立場から代替地を用意する姿勢が打ち出されていた。
 結局、この問題は東京都が病院開設を許可し、さらには都議の仲介があり、金銭補償することで決着した。『朝日新聞』(昭和三十年十月三日付)によれば、「補償金一五〇万円は五〇万円を十二月二十五日まで、残り一〇〇万円を五ケ年間で支払うという」という条件で、村長は建設受け入れの態度を決定した(資四―217)。しかし、この妥結に関して絶対反対の声も強く、村内での対立が浮き彫りとなった。結核対策同盟が出した「声明―結核病院問題の真相―」によれば、絶対反対の地区は、全村一〇地区のうち、連光寺本村・馬引沢・東部・関戸の四地区であった(資四―218)。
 なお、この同じ年には、近隣の府中市においても、中河原の恵仁会病院が「結核病院」になる恐れありとして反対の動きがあったことが報道されている(『毎日新聞』昭和三十年四月十二日付)。