昭和三十年頃に、特殊林産振興会、酪農研究会、養豚研究会、園芸研究会、農業機械化研究会、営農研究会という六つの農業研究団体がつくられた。これらの研究団体には、多摩村役場の産業課(産業係)からの援助・補助があったという(以下の記述は、平成八年八月二十一日に実施された、矢島繁次郎氏と相沢昭治氏に対する聞き取り調査による。両氏とも、昭和二十年代から多摩村職員として勤務されていた)。
特殊林産振興会は「組合みたいなもの」であり、ここでは椎茸とドイツトウヒの栽培について取り組んだ。昭和二十九年十月九日の『毎日新聞』には、フレームを利用した多摩村の椎茸栽培についての記事がある。新聞では、椎茸栽培のためのフレームを建設し、大規模な生産にのりだしたことになっている。フレームは三坪程の「半地下片屋根式」のものと報じられているが、実際のフレームはといえば、軒下をビニールで囲うだけのものであったという。それでも、十分に「促成栽培」ができた。椎茸のフレーム栽培をはじめたのは、冬に採れるようにしたかったからである。露地栽培では収穫時期が春秋になってしまい、高値で売れる正月のおせち料理用にはならない。フレーム栽培にすれば、露地とちがって、一斉に収穫する事になるが、収穫時期を冬にしておけば高値で売れた。椎茸は、府中の夕市で販売。置いてくるだけだが、よく売れた(せりにかかる)。
図2―3―8 椎茸の栽培
ドイツトウヒは、多摩村では昭和二十八年頃から栽培され、出荷されていた。クリスマスツリー用に栽培されたものであり、伊勢丹、大丸、三越といった東京都内のデパートが大口の需要先であった。出荷するまでに三年を必要としたが、畑の間作地を利用することができること、施肥しなくともすむこと、手間は除草程度ですむことなどから、南多摩郡地方事務所では農家の副業として推奨していた。多摩村特殊林産振興会の「昭和三十二年度ドイツトウヒ出荷明細表」によれば、出荷本数は総計一五六二本であった。価格は、一・〇尺が四〇円、一・五尺が六〇円、二・〇尺が八〇円、二・五尺が一〇〇円、三・〇尺が一二〇円、三・五尺が一五〇円、四・〇尺が一八〇円、四・五尺が二〇〇円、五・〇尺が二三〇円、五・五尺が二六〇円、六・〇尺が三〇〇円、六・五尺が三五〇円であった(資四―193・226)。ドイツトウヒを多摩村で栽培するというアイディアは、南多摩地方事務所の林務課技師によるものである。ドイツトウヒの苗は、北海道から移入した。ドイツトウヒは「季節商品」であり、冬に高値を付ける作物であったが、現金収入の途が乏しかったためもあって、どうしたら売れるかをいつも考えていたという。
特殊林産振興会では、前記の他の農産物についても研究していた。ある程度の成果を挙げ得たものに、栗と梨がある。栗は、京王帝都電鉄とタイアップして、関戸の栗栽培農家で「観光栗拾い」をやったりした。実際には、その農家で採れる栗では足りないので、村中から栗を集めてきて、栗林に撒いて、それを拾ってもらった。梨も良いものを栽培することができた。柿の木はいたるところにあった。柿の品種は「禅寺丸」がほとんどだった。この品種は甘く、品質にも自信があったのだが、種が多く、小振りだったため、売り物としてはあまりうまくいかなかった。暖地りんごは四国でやっていたものを導入しようとしたのだが、出荷するまでにはならなかった。ユーカリは、農業先進地である熱海でやっていたので、「多摩でもやってみよう」ということになったのだが、失敗に終わった。成長は早かったが、冬が越せなかったのである。
酪農研究会の主な仕事は、乳牛貸付事務と伝染病予防であった。原乳を出荷するだけでなく、多摩の酪農を振興しようという意図もあった。乳牛貸付制度は東京都によるものである。これは、仔牛が生まれ、その仔牛を他に譲ると、親牛が自分のものになる、というものである。養豚研究会の仕事は、豚コレラ予防が中心に位置づいていた。「良い仔豚を買ってきて育てよう」という目的のもと、浜松のコロ(仔豚)のセリ市に役員が出かけていったこともある。
園芸研究会では、清浄野菜の研究を中心に活動していた。清浄野菜とは、糞尿肥料を使わずに栽培するもので、流行りつつあった野菜の生食(レタスなど)に対応しようというものである。それまでの糞尿肥料を使う栽培法では、回虫などの寄生虫がいるため、生で食べるには難があった。米軍基地では、野菜をサラダとして生食していたが、ここで食される野菜は、アメリカから空輸されたものか、基地内で水耕栽培されたものだった。日本の野菜は虫がいて危ないという理由からである。研究会で取り組んだ作物は、レタスや夏きゅうりである。レタスは段ボールにつめて「多摩の清浄野菜」として販売し、好評を博した。夏きゅうりは露地物で、土に這わせてつくった。農協の場所を使って選び、共同で出荷した。「多摩夏きゅうり」は評判が良く、市場からは「もっと出してくれ」といわれたが、生産量が少なかった。
農業機械化研究会では、多摩村の農業の機械化を推進しようとした。普及所に耕耘機が一台配備されたので、耕耘機の利用を促進しようとした。「テイラー」(正しくは「ティラー」と表記・発音する)の普及も重要な仕事であった。昭和三十年頃には、「テイラー」を乗用するようになってきていたが、これには小型特殊免許が必要であった。「小型特殊免許だけ取得するのもなんだから、普通自動車免許もとろう」ということになった。自動車免許を取るための学科講習を役場の会議室で開いたりした。とはいっても、昭和四十年頃までは牛馬で荷運びするのが結構残っていたし、それがあたりまえだった。自転車にエンジンをつけた「バタバタ」に乗って、村内の各農家を回るようになったのも昭和三十年代半ばであったという。動力は、一般的には、人力であり、畜力であった。それは、「テイラー」やオート三輪よりも牛馬の方が力強く、同時に多量のものが運べたからでもあった。また、暗渠排水事業もこの研究会で進めようとしていた。谷戸田の暗渠排水事業を成功させ、機械化を可能にし、収量を向上させようとした。
図2―3―9 「テイラー」
営農研究会は、農業近代化のための研究会である。多摩村の農家にとっては、五・六月と十・十一月が一年で最も忙しい時期であった。これは蚕を飼っていたためでもあるが、それ以外の時期も含めて、年間を通じての仕事を確保したいという意図が働いていた。チューリップ、シクラメン、フリージアといった花の栽培を研究の中心に据えた。とりわけて、チューリップの研究に力を注いだ。
昭和三十九年(一九六四)三月十六日付の『朝日新聞』と同年五月八日付の『毎日新聞』に、営農研究会のことが報じられている。それによれば、多摩村営農研究会の会員は二〇人で、昭和三十六年三月に結成された。昭和三十九年の時点で、会員の平均年齢は二五歳であり、府中市にある東京都立農業高校の出身者が多い。全員が農家の長男であり、「長男としての使命」を感じて、農家の後継者となる決心をした。多摩村内における二〇代の農業後継者は、営農研究会のメンバーだけだったという。近所の仲間たちがどんどんサラリーマンになっていくなかで、会員の共通の課題は、多摩村の新しい農業の経営基盤をどこに見出したらよいかということであった。今後、需要の伸びが期待でき、狭い土地でも利益を確保できる「花づくり」を研究テーマに選んだのはそのためである。昭和三十九年には、キク、カンナ、グラジオラスなどの栽培も開始した。会長を務める㟁俊昭は「いまのように急激に環境が変化しているのに、せっぱつまってから、打開策を考えたのではもう遅い。花づくりでも、他産地と同じ技術を身につけ、これと競争してゆけるようになるまでには何年もかかる。いまから始めなければ間に合わない」(『毎日新聞』昭和三十九年五月八日付)と語っていた。
多摩村の農家は、現行の農業基本法の制定前にも「自発的」に農業の「選択的拡大」をめざしていた。しかし、ニュータウン開発が該当地の全面買収を前提としたものであったために、新しい試みのほとんどは中途で終わらざるを得なかった。昭和三十九年十月八日付の『朝日新聞』は、該当地域の「全面買収」を前提とするニュータウン計画に困惑する農家の姿を報じている。農業を辞めることを余儀なくされた農民が、離農後の心配をするのは当然であった。