農業委員会での議論

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昭和二十年代の多摩村は「純農村」であり、主な産業はもちろん農業であった。しかし、昭和三十年頃を端緒とする高度成長期には農地や山林の潰廃による宅地化が進められ、主産業であった農業の比重は低下していった。昭和三十年代後半は都市化の著しい時期であり、多摩村は農村としての景観を大きく変貌させ、首都郊外のベッドタウンとしての役割を担うようになる。
 富沢政鑒村長は昭和三十八年(一九六三)の多摩村農業委員会第七回総会において、農業の基本的条件である農地が多摩村では減少しているが、これは首都郊外の多摩村に都市化が波及したためで、農地が宅地・工場に転用されていくのはやむを得ないこと、との現状認識を示している(資四―228)。日本の農業は全国的に経済面で不安定であり、多摩村でも農地の潰廃が進んでいるが、「都市近郊という好条件」を活用すれば農業経営規模が小さくとも「経営の方式で収益の増大をはかる」ことができるので、構造改善を実行し、農家の経営規模を拡大し、農家を専業化していくことが多摩村農業委員会の使命である、と語っている。
 昭和三十八年十二月十三日には、多摩村農業労働力調整協議会の近代化省力化部会が開催された(多摩市農業委員会所蔵資料)。出席委員は秋山常三(普及所長)、相沢昭治(産業課長)、相沢政次郎(農業委員)、加藤武男、㟁俊昭、寺沢茂世(助役)、富沢政鑒(村長)の七人である(全員出席)。助役の寺沢茂世は村長の代理として、「(前略)当村の農政関係につきまして年々住宅化構成(攻勢カ)のあおりをくって農地等の減少がとみにめだっており他産業への流出を広げているようなものである。かつ処置については現状からしておさえようのないとこへきており農業経営の転換を迎えようとしている。このようなときであるので農政施策の困難さが」ある。この問題については「直ぐに解決は望むことではありません」と挨拶している。この回では、①営農類型に伴う労力問題について、②農家における父子契約について、③省力技術導入計画策定について、を協議事項としている。農家労働力不足に対処するための協議会であり、そのための対策を立案することがねらいであったようなのだが、課題を解決するための「良案」を決めるにいたらなかった。議論の終盤で、富沢政鑒村長は「未だ沢山の問題をかゝえているわけですが経営と労力の点にしても尚せつじつなとこへ行くことになりかねない」と発言している。
 町制施行直後の昭和三十九年四月十三日の農業委員会では、農業近代化計画(昭和三十九年度の農業委員会の事業計画)が審議されている。昭和三十九年の事業計画(案)には「多摩都市計画の区域の指定、町制施行等、当町の都市化は急速な進展を見せ、この様な中にあって農業も又企業的且つ市街地的農業へと躍進のきざしがみられる様になった」「この様に勇躍近代化の緒についた当町農業を都市計画との調整を図りつつ更に強力に推進し自立し得る農家を育成する」と記されている。「農地対策」のため、毎月定期的に農業委員会を開催し、協議することにしたようである(農地関係法令に委ねられた事項の適切・迅速な処理のため)。「農政対策」としては、以下の事柄を実行しようとしていた(一部分を抜粋・補訂して提示する)。
[農業近代化計画の樹立推進]農家・農業団体の自主的総意に基づく農業近代化計画の樹立と、自立的農家・企業的経営農家の育成。
[農業就業構造改善対策]農業労働力調整協議会の設置。この協議会で、農業労働力の動向、近代的農業経営者の養成確保、季節的農業労働力の需給、省力的農業技術の導入、零細農家の転職促進等の調査・研究・協議を行う。指導と改善のための役割も担うものとした。
[農業団体の育成]業種別農業研究団体を育成・強化し、農業集団化を図る。

 農業委員会の議事のなかでは、「不時栽培施設」「半促成・促成栽培施設」「有畜農業」の環境整備を促進することが話題となっている。しかし、有畜農業の前途は危ぶまれていたようである。宅地化とどのように「両立」させるかが課題であった。柚木健蔵委員の「多摩町に於いて企業的農家の対象となっている農家は何戸位該当するか」「これから宅地化に伴い有畜農業の環境整備はどうなるか」との質問に、書記の相沢昭治は「年間を通じて一〇〇頭経営農家は養豚で五戸酪農で一戸で養鶏部門もあると思いますがはっきりとした数字はでゝおりません」と答え、有畜農業の環境整備に関しては町田市の例を挙げ、養豚については困難な問題があるようだと述べている。有畜農業を推進しようとしていたのだが、牛や豚や鶏の排出物をどのように処理するかで、頭を悩ませていたのである。
 この委員会の議事を終える直前には、農地の無断改廃・転用の問題が緊急動議として提案された。農業委員はそれぞれが担当する地区(出身地区)の指導・注意にあたることとなったが、事前指導の効果は十全に発揮されたとはいえず、「後追い」になるのが実情であった。