京王電鉄の不動産業務は、当初から大規模団地を手がけていた。前掲の『京帝だより』九三号は、こうした開発こそ「当社のような大資本のやり方です」と書いている。「大体、最低十万坪単位の町づくりじゃなければ、田園都市とはいえませんね。桜ヶ丘団地のように二十三万坪の宅地開発をやり、旅客誘致をするのが、当社のような大資本のやり方です」と。
京王電鉄の土地買収は昭和三十一年(一九五六)の春頃から始まり、翌年には京王線聖蹟桜ヶ丘駅から徒歩約二〇分の場所にある多摩村の丘陵地約二三万坪の土地を購入した(資四―237)。同年八月には、京王電鉄がその地に大住宅地を建設する構想をもっている事が報道された(『朝日新聞』昭和三十二年八月十七日付)。
この桜ヶ丘団地建設には、多摩村が積極的に協力した。昭和三十二年(一九五七)の前半期に、多摩村開発実行委員会が設置された。この会は、京王電鉄幹部を最高顧問にし、杉田浦次村長、塩沢貞収入役、長谷川惣一郎庶務係らの役場関係者と議員、農業委員、関係地主で構成されており、「文化的一大住宅団地の誘致建設」の完遂を期すことを目的としていた(資四―221)。多摩村開発実行委員会は、昭和三十二年(一九五七)七月に買収の最終決定のための会議を開催した。多摩村と京王電鉄と関係地主の三者は、共同して開発を推進することになった。
この団地開発は、京王と村との「両者の利害の一致」によって進められた。『京帝だより』九三号の「京王電鉄の桜ヶ丘団地建設への取りくみ」という記事は、次のように述べている。「会社としても、桜ヶ丘団地をつくり、ここにお客さんが住めば電車やバスの収入は増える。村も豊かになる。というので両者の利害は完全に一致したわけです」と。土地の買収についても、「村が全面的に協力してくれた」という。「桜ヶ丘のような本格的な町づくりは、いくら会社に資本力があるといっても、当社だけが一人相撲でやる町づくりでは万全ではなく、多摩村をはじめ関係町村の協力を得ながら開発する。この考え方、行き方が一番基本じゃないかと思いますね」という言葉からもわかるように、京王電鉄の開発の仕方は、地元自治体の協力を仰ぎつつ進展させるというものであった。
桜ヶ丘団地の地鎮祭は、昭和三十五年(一九六〇)三月二十九日に行われた。自民党細田代議士や国土開発佐藤社長から祝辞があった。多摩村長も祝辞のなかで「京王帝都の桜ヶ丘団地開発により、本村は一大発展することができます。完成の暁には村の人口も二万人をこえるでしょう。都下のベッドタウンとして村でも受入体制の充実に努力します」と述べた(『京帝だより』八三号)。そこには、村の開発への協力姿勢がはっきりと示されていた。
多摩村での宅地開発の歴史のなかで、この桜ヶ丘団地ほど大規模なものは存在しなかった。これ以前の時期に、馬引沢地区等に団地が建設されていたが、この団地のような規模ではなかった。京王による宅地開発は、多摩村における宅地建設としては画期的な規模のものであった。京王電鉄の不動産業務という点からみても、この桜ヶ丘団地の建設は従来の開発を越える規模のものであった。こうして、桜ヶ丘団地の開発は多摩村と京王電鉄の「利害の一致」の下に推進されていったのである。
図2―3―12 桜ケ丘団地開発前の金比羅山(昭和31年)