昭和三十六年六月、京王電鉄より区域変更と新地名設定の要望書が提出された。区域変更を要望した理由は、「本団地は地籍上、四大字と数小字にまたがり、このままで分譲いたしますと、入居者の社会生活上、公私ともにきわめて不便、混乱を生じます」という点にあった(資四―239)。京王電鉄が要求した新地名は「桜ヶ丘」であった。地名変更の要求書において、京王電鉄は「本団地の分譲にさきだち、大体当社所有地を基本として、新行政区画を設定して、これに〝桜ヶ丘〟新地名を与え、これに伴う大字および字区域境界の一部変更をお願いいたしたいと存じます」(資四―239)と述べている。昭和三十七年(一九六二)三月の村議会に、地名変更に関する議案が提出された。「新地名については、京王帝都電鉄株式会社の要望を参酌し、桜ヶ丘を採用したものである」(資四―240)。村議会は即日可決した。こうして、京王電鉄の要望する通りの地名が選ばれた。
この地名変更の理由について、『多摩村広報』第四号(昭和三十七年五月十五日付)では、「合理的な町造り」と「村行政の能率化と住民福祉の増進」にあると説明している。「周辺の一部を包括して区域を定め、現在の大字(四地区)の一部を廃し、その地域に新に桜ヶ丘一丁目から四丁目を画し、街区方式による合理的な町造りをなし、地番整理と住居表示制度とをあわせ実施することにより、村行政の能率化と住民福祉の増進をはかるもの」である、と。
図2―3―13 整地が完了した桜ヶ丘団地