多摩地区にゴルフ場建設を考えていた企業が、昭和三十三年(一九五八)の「五月ごろ」より土地を物色し「九月に契約というスピード買収に成功した」(『毎日新聞』昭和三十四年二月八日付)。多摩村に造られたゴルフ場であったが、府中カントリークラブと命名された。府中と名付けられた理由は、ゴルフ場誘致の中心人物で土地所有者の代表でもあった横倉舜三の回想である『多摩丘陵のあけぼの―前編―』によれば、競馬場や大手企業で全国的に有名な府中の「名を使うことによって会員募集が容易に進むだろうということをねらった面が多分にあった」のである。それに対し、「多摩村となると何となく僻地に思われていたのである。いや全くの僻地であった」ので知名度は低かった。
このゴルフ場用地の「スピード買収」は、地元の土地所有者の協力の賜物であった。土地買収の代金は、「山林三五〇円、畑五〇〇円、水田七〇〇円(何れも坪当たり)」で、「買収面積は当時で二七万坪と言われ、買収総額は一億二三〇〇余円であったという」(『多摩丘陵のあけぼの』)ことである。土地所有者の手元には大金が入り、「土地ブーム」に湧いた。「買収価格は一ヘクタール約一〇五万余円(坪約三五〇円)で昨年末にはこの土地に約八七五〇万円の現金がころげ込み、現地の人々は思わぬ土地ブームにほくほくだった」(『毎日新聞』昭和三十四年二月八日付)。
さらに、昭和三十四年(一九五九)には、連光寺地域にもゴルフ場が建設されることとなった。「建設は京王電鉄が担当しており、約六億円の工費だという」(『朝日新聞』昭和三十四年十月三日付)。桜ヶ丘ゴルフ場の誕生である。
当時の多摩村の主産業である農業、林業は不振であり、転換点にさしかかっていた。そうした時期に、土地が現金に変わり大金を手にすることができるという実例が示されたのである。土地所有者の間には、開発賛成の声が高まることとなった。土地売却で得た大金が農業再建という方向に使用された例は、わずかであった。
この府中カントリークラブは、「個人株主正会員三〇万円」で、「開場以来、作家の獅子文六の理事長就任や政界からは松平勇雄氏、虎屋の黒川氏などの参議院議員も役員となり、田中元総理も時々見えていたという」名門ゴルフ場となった(『多摩丘陵のあけぼの』)。後の多摩ニュータウン計画では、府中カントリークラブは計画区域から除外された。