川砂利採取の禁止と国鉄下河原線

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河川の管理と保護の観点から、昭和三十年代の規制はより厳しいものとなっていく。昭和三十二年五月三十一日付の『朝日新聞』は、東京都の水防基本方針と「出水についての備え」に関する記事を載せている。
三多摩地区では多摩川、浅川が危険。都防災課長の話によるとこの両川は〝特別な危険個所を挙げることは出来ないが全体が危なっかしく、どこが決壊しても不思議はない〟という。その原因は乱暴な砂利取りだ。とくに砂利採取の激しい多摩川は川底が平均一・二メートル下り、このため支流の川底も同様に沈下、堤防の根固めが到るところで露出しているという。

 多摩川は晩秋から早春までは水量が少なく、梅雨時期から、夏季、初秋にかけては水量が増えるということが知られていただけに、水害についての危惧を持つのは当然であった。
 昭和三十九年(一九六四)九月十五日には、河口から青梅市の万年橋までの商業採掘が全面的に禁止された。昭和四十年四月三十日には、万年橋の上流も禁止され、多摩川本流の全区間の採取が禁じられた。
 昭和三十九年六月三十日の東京都の第一〇回庁議では、多摩川水系砂利採取収束対策協議会の設置が議題となっている。砂利採取業者の他河川への転出と転業・転職の対策を協議することがここでの課題であったが、転業資金の融資斡旋や職業紹介の域をこえることはなく、転業・転職補償については考慮されていなかった。「多摩川における砂利採取収束計画について」の「参考」の項には、以下のように記されている。

図2―3―14 多摩川と多摩村の景観(昭和36年頃)

砂利採取許可は、河川法第一七条の二の規定による許可であり、同法第一七条及び第一八条の規定による河川敷占用並びに工作物設置許可のごとき設権行為ではない。漁業権は、漁業法第二三条に明示されているように物権とみなされているものである。よって漁業権については補償の対象となるが砂利採取については、補償の対象とならない。

 昭和三十八年十二月十九日と昭和三十九年五月三十日の『朝日新聞』は、東京都内の建設工事の基礎資材として大きな役割を担った川砂利採取の禁止について、報じている。砂利採取が禁止されるため、「多摩川から締め出される業者」は約一二〇社であり、大部分の業者は途方に暮れている、という。首都建設や東京オリンピックの関連施設を建設することに貢献した多摩川の砂利採取業者の行方を案じた記事となっている。
 多摩村内の状況については、第一〇回庁議の添付資料である「多摩川水系砂利採取業者名及び採取場現況表(昭和三十八年三月三十一日現在)」から、その一端を知ることができる。この表は簡略な地図となっており、南武線鉄橋から関戸橋の間の事業場数は八か所と確認できる。右岸の多摩村内は五か所で、小川組、オリエンタルコンクリート、岩井善則、井上組(二か所の事業場を有する)の四業者が操業していたことを知ることができる。左岸は、田村石材工業、石川作雄、林米一郎の三業者が操業していた。
 多摩川砂利採取に関連して、国鉄下河原線のことを付言しておきたい。多摩川沿岸の鉄道の敷設目的は、多摩川産の砂利を運搬するためであったが、国鉄下河原線もその例に洩(も)れなかった。明治四十三年(一九一〇)、砂利運搬を容易かつ簡便にすることを目的として、東京砂利鉄道は営業を開始した。これは、中央線の国分寺駅と多摩村連光寺字下川原(昭和三十年四月に府中市に編入)の間の六・四キロメートルを結ぶ多摩村初の鉄道線であった。大正九年(一九二〇)には鉄道省に移管された。鉄道による砂利出荷の状況については、表2―3―7の通りである。昭和二十九年四月分から、昭和三十二年二月分までのデータを知ることができる。多摩村所在であった下河原駅は、下河原線の駅であるが南武線のなかに含まれていた。
表2―3―7 鉄道各駅別砂利類出荷量
(単位:トン)
南武線 青梅線 中央線 西武鉄道
下河原 府中本町 昭和前 拝島 福生河原 小作 豊田 是政
昭和29年 4月 1,591 3,038 565 1,884 2,994 22,473 285 6,735
5月 1,520 4,546 0 3,574 2,769 23,877 485 8,400
6月 2,546 3,831 0 2,202 1,078 20,504 122 7,985
7月 2,160 4,275 1,316 2,736 1,446 16,529 126 11,030
8月 1,542 4,733 2,920 3,272 1,141 21,667 186 8,350
9月 34 5,160 1,676 1,678 918 13,629 116 10,160
10月 368 6,571 456 3,311 758 20,007 126 10,645
11月 552 4,565 1,691 4,302 2,026 23,237 203 9,770
12月 3,362 4,297 1,836 2,637 1,191 23,418 128 9,070
昭和30年 1月 1,050 3,944 2,295 2,405 1,777 15,441 49 6,795
2月 1,158 6,404 4,609 2,700 2,171 18,022 196 8,315
3月 1,128 5,939 2,586 2,992 1,704 20,719 135 12,405
4月 926 3,743 1,284 1,543 1,296 17,708 158 15,870
5月 737 4,168 1,404 2,185 1,006 19,453 15 17,340
6月 405 4,117 1,241 752 1,027 15,440 0 15,280
7月 245 3,568 2,661 3,359 807 18,241 0 14,690
8月 1,114 1,842 1,212 3,607 894 18,677 0 16,435
9月 900 4,600 1,413 2,173 557 529 0 16,760
10月 1,145 4,395 664 2,632 787 19,565 1,020
11月 1,330 4,019 2,310 2,654 761 18,997 1,185
12月 1,008 3,780 1,778 3,280 1,601 19,215 2,540
昭和31年 1月 592 1,954 810 4,225 1,216 12,930 1,035
2月 200 5,371 762 4,833 1,518 8,496 1,825
3月 2,096 5,043 5,551 3,464 1,596 15,688 1,770
4月 587 4,599 3,964 466 2,260 18,623 2,685
5月 2,612 5,021 5,826 852 1,273 19,186 2,125
6月 1,712 4,015 4,603 1,714 979 17,234 1,795
7月 1,535 3,057 4,023 1,276 863 16,907 2,570
8月 212 4,018 3,494 813 692 13,377 2,160
9月 1,781 4,070 2,903 1,260 588 12,817 1,225
10月 1,346 4,064 1,647 120 542 12,553 1,020
11月 1,014 581 1,020 523 11,506 2,660
12月 581 2,351 1,378 1,168 11,079 1,987
32年 1月 128 496 1,772 145 863 9,410 1,460
2月 213 2,720 458 146 1,660 7,779 2,355
注)1 日本砂利協会『砂利時報』より作成。
  2 昭和29年度分(昭和29年4月~昭和30年3月)は昭和30年5月20日号に、昭和30年4月~9月分は昭和31年1月20日号に、昭和30年10月~昭和31年3月分は昭和31年7月20日号に、昭和31年4月~昭和32年2月分は昭和32年5月20日号による。

 昭和三十年代になると、砂利輸送は鉄道から、トラック輸送が中心になっていく。東京都内に砂利を搬入する輸送手段の六割五分はトラックであった、という。国鉄下河原線は、一時期は旅客営業もやっていたが、昭和四十八年(一九七三)に武蔵野線の西線が開通すると再び貨物専用線になり、昭和五十一年(一九七六)には全面的に廃止された。