ミサイル基地

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昭和四十年は、ベトナム侵略反対、日韓基本条約反対の運動の国民的運動が展開され、ベトナム戦争への日本の関与が論議を呼んでいた年であった。そうした時期に、米軍多摩弾薬庫へのミサイル基地建設計画が明らかとなったのである。
 米軍多摩弾薬庫へのミサイル基地建設計画を多摩町の関係者が知ったのは、二月十八日のNHKテレビの報道によってであった。二月二十二日、多摩町と稲城町の町長・町議会議長が会談して、「両町相提携して同一歩調で反対運動を起こす事と」した(資四―263)。多摩町議会は、二月二十四日に町長提出の「ミサイル基地計画に対しては挙げて反対である」との決議を可決した(資四―263)。稲城町議会でも同様の決議を可決した。

図2―3―5 ミサイル基地問題を報じた『朝日新聞』記事

 東京都の態度をみると、二月二十四日の企画調整局・総務局・広報室・首都整備局・住宅局の参加した東京都調整会議は、「都としては、当面次の方向で対処するのがよいと思われる」として、「仮にホーク基地ができるとすれば、住宅団地にかかる基地を設置することに反対である」との態度を決定した。ところが、「上記の経緯並びに会議結果について、鈴木副知事に報告、指示を求めた結果」、副知事から「仮定の上に立った都の意志表示はしないこと」という指示があった(資四―265)。
 三月一日には、多摩町・稲城町をはじめとして町田市・八王子市・府中市・日野市の首長・議長は、「画期的、理想的なる南多摩ニュータウン計画に対しては致命的な打撃となり、当地域発展のために重大なる障害を与えるものである」として、反対の陳情書を提出した(資四―263)。
 三月十一日の都議会財務主税拡大委員会での社会党議員のホーク基地に関する質問への答弁において、「都当局」は「『もし、ホーク基地をつくるとすれば都市計画の変更が必要だ。それには地元の同意がいる』と発言」した。「地元は早くから基地反対を表明しているので、基地の新設は手続き上からもきわめてむずかしいこととなった」と報じられている(『朝日新聞』昭和四十年三月十二日付)。
 三月十八日、都議会企画総務首都委員会において、多摩町・稲城町の「二町代表として」多摩町長が「基地設置反対の陳情をした」(『稲城市史』資料編四)。三月二十六日の知事・副知事・各局長で構成されていた東京都首脳部会議は、基地反対を明記した議会局原案について、「原案は基地反対の意見書であるが、これをニュータウン建設のための施設解除の意見書に改めること」を決めた(資四―265)。こうして、「『多摩弾薬庫』用地のミサイル基地計画反対に関する意見書(案)」は、「反対」という表現を改め「『多摩弾薬庫』用地解除に関する意見書(案)」へと変化した。修正された「意見書(案)」では、「東京都議会は同地区をミサイル・ホーク基地とすることなく『南多摩ニュータウン』建設用地として早急に解除されるよう強く要望するものである」という表現となった(資四―267)。
 昭和四十年(一九六五)三月二十日付の『多摩町広報』は、町長・町会議長連名の「多摩弾薬庫のミサイル基地問題について」を掲載した(資四―263)。同年五月七日に開催された南多摩ニュータウン協議会は、ニュータウン建設に際しての地元の要望事項をまとめた。そのなかに、「計画地近くにある弾薬庫(米軍)は撤収し、ニュータウン区域に入れよ」という項目も含められていた(『朝日新聞』昭和四十年五月八日付)。
 この間、都議会では三月に議長選挙をめぐって汚職事件がおき、三人の都議が逮捕された。内外からの都政刷新を求める声を前に、都議会は、六月十四日に解散となった。この解散で、三月に都議会に提出した多摩町・稲城町をはじめとして町田市・八王子市・府中市・日野市の首長・議長の署名のある陳情書が「その効力を失った」(『多摩町広報』昭和四十一年(一九六六)一月一日号)。七月六日、多摩町と稲城町の合同会議が開催され、ミサイル基地反対合同委員会を設置した。その日に開かれた第一回の委員会で、「反対署名を両町別に行う」ことや、「陳情書は政府、防衛庁長官に提出」すること等を決めた(『稲城市史』資四)。都政刷新が大きな争点となった七月二十三日の都議選では、社会党が第一党となった。このことは、ミサイル基地問題への都議会の対応の変化をもたらすこととなった。
 多摩町と稲城町は七月の「二十四日から町ぐるみの反対署名運動をくり広げることになった」。「両町あげての反対署名運動をくり広げることになったもの」で、「両町共同で広報号外を発行するという」(『朝日新聞』昭和四十年七月二十四日付)。八月十八日までの集計で、多摩町と稲城町での反対署名は、「両町合計で有権者の約七七パーセント、一万六三〇〇人余の署名が集まった」(『朝日新聞』昭和四十年七月二十四日付)。なお、昭和四十一年(一九六六)一月一日付の『多摩町広報』によれば、多摩町での署名数は七五四〇名であった。
 八月十九日、多摩町と稲城町は共同で、防衛庁・総理府に陳情に向った(『多摩町広報』昭和四十一年一月一日付)。多摩町からは、「町長・議長・助役・議員及び各部落長」が参加した。
 九月二十四日、都行政部長と防衛施設庁連絡調整官との会談において、都行政部長が「その後の計画の状況」を聞いたところ、防衛施設庁の連絡調整官は「ホーク基地設置計画は所管外で私共は何も知らされていないのでわからない」、「防衛庁の所管」なので「そちらにきいて貰いたい」と答えた(資四―264)。
 十月八日、多摩町と稲城町は都議会解散のため廃案となったものと同じ内容の陳情書を再度提出した(『多摩町広報』昭和四十一年一月一日付)。十月二十四日、都議会は「多摩弾薬庫用地にミサイル基地を建設することに反対する意見書」を可決し、内閣総理大臣・外務大臣・大蔵大臣・防衛庁長官に送付した(『多摩町広報』昭和四十一年一月一日付・『稲城市史』資料編四)。
 昭和四十一年(一九六六)三月二日の定例都議会の一般質問で公明党議員の「ミサイル基地にしないと責任もっていえるか」との質問に対し、知事は「ミサイル基地がニュータウン建設と相いれない内容ならば到底容認できない」と答弁した(『朝日新聞』昭和四十一年三月三日付)。ホークミサイル基地設置阻止の示威運動も、都内各地で展開され、結局のところ、ホークミサイル基地設置は実現しないままとなった。