図2―3―16 野戦病院移転問題をあつかった『朝日新聞』記事
六月二十八日、多摩町議会全員協議会が開かれた。「一部革新系議員が猛烈な反対をぶったものの『まだ決定をしたわけではない』と結論はでなかった」(『朝日新聞』昭和四十三年六月二十九日付)。七月二日、町長・町議会議長らが北区役所を訪ねて実状を聞いた。「町長はこのあと『ヘリコプター騒音のほかは、実害は少ないとの印象を受けた。かりに同病院が多摩弾薬庫用地に移ると確定しても、稲城町側への公算が大きいとの見通しなので、町としては騒がず慎重に調査を重ね、成行きを見守りたい』と語った」(『朝日新聞』昭和四十三年七月三日付)。七月五日、多摩町議会は全員協議会を開き「九日に開かれる臨時町議会で『米陸軍病院対策特別委員会』(委員八人)を設置することを申合わせた」(『朝日新聞』昭和四十三年七月六日付)。七月十日、多摩町臨時町議会で米陸軍病院対策特別委員会の設置を可決した。「隣りの稲城町議会では『米陸軍病院移転反対別委員会』を発足させている」(『朝日新聞』昭和四十三年七月十日付)。多摩町、稲城町の町議会の対処の違いが、明確になった。
七月、「日本社会党多摩・稲城総支部は、ホークミサイル基地反対闘争は終わったとし、『主体性の強化、共産党などとの共闘はできない』と野戦病院反対をひきつづき闘おうという組織から脱退しました」(昭和四十四年二月三日発行の日本共産党稲城町支部・日本共産党多摩町支部のビラ「全町民が団結して米軍野戦病院移転に反対しよう!」、故・横田勝子氏所蔵資料)。七月二十六日、多摩町米軍野戦病院反対協議会が結成された。その参加組織は、日本エアシューター労組、安全車体工業労組、日本住宅公団労組南多摩職場会、都教組南多摩支部多摩地区協、東京土建一般労組南多摩支部、日本身心障害児協会労組島田療育園等の労働組合や、日本共産党多摩町支部、日本民主青年同盟、多摩町平和委員会等であった。日本社会党は参加していなかった(昭和四十四年二月十八日の学習・討論集会への資料「多摩・稲城への米軍王子野戦病院移転反対闘争の経過」、多摩町米軍野戦病院反対協議会、故・横田勝子氏所蔵資料)。
八月二十八日、日本社会党多摩・稲城支部、同党東京都本部三多摩分室、三多摩地区労の代表は、都知事と都議会議長に「『米軍の野戦病院を都内はもちろん日本国内から撤去させるよう立ち上がってほしい』との要請書」を提出した(『朝日新聞』昭和四十三年八月二十九日付)。
九月二十日には、多摩町米軍王子野戦病院反対協議会から「米軍王子野戦病院の多摩弾薬庫への持込みに反対する請願書」が提出された(資四―268)。紹介議員は、社会党の新倉延一、共産党の横田勝子、無所属(公明党系)の宮崎幹雄であった。九月二十三日には、日本社会党多摩支部長から「米軍野戦病院の多摩弾薬庫跡地設置反対に関する請願書」が提出された(資四―268)。紹介議員は、社会党の新倉延一であった。
十一月四日に開催された多摩町議会米陸軍病院設置対策委員会は、「議会としては多摩弾薬庫跡の問題を決定した上で提出されている請願書の審査をすべきである」とし、「多摩弾薬庫跡の敷地を地元の自治体に返還させるよう運動を起すべきであって、その次の段階で請願書を審査するのが妥当である」との態度を決定した。その上で、反対の請願を「議会に返納」するという処置をとった(資四―268)。昭和四十三年(一九六八)十一月二十五日、多摩町議会は「当地多摩弾薬庫跡は、次の理由により全面解除し、地元自治体に返還されたい」との「多摩弾薬庫跡解放に関する意見書」を、防衛庁長官・防衛施設庁長官・東京都知事・東京都議会議長にあてて提出する議案を可決した(資四―269)。昭和四十四年三月十三日、「米軍王子野戦病院の多摩弾薬庫への持込みに反対する請願書」は多摩町議会で不採択となった(資四―268)。
昭和四十四年六月の議会での答弁において、町長は「私はイデオロギー的に王子病院がいいとか悪いということは論じておるわけではございません」、「私は米陸軍病院という問題については、別個の問題として考えていきたい」という態度を表明した(資四―269)。
米軍野戦病院の移転は、結局のところ実現しないままとなった。昭和四十四年十一月二十日付の『広報いなぎ』は、「移転問題が十一月七日防衛庁長官の発表により解消されました」と町民に報じた。「これは、在日米軍より北区王子にある米陸軍王子病院の活動を本年十二月末までに停止するとの連絡があったことによるもの」(『稲城市史』資料編四)であった。
この米軍野戦病院移転反対運動は、昭和四十年(一九六五)のミサイル基地問題反対運動と大きく違っていた。まず、多摩町の態度が稲城町の反対という態度と違っていた。次に、多摩町長・多摩町議会は反対の立場を明確にしなかった。第三に、反対運動において、社会党と共産党が統一した行動を取れなかった。
その後昭和四十七年(一九七二)九月、多摩市・稲城市の市長・市議会議長は「米軍多摩弾薬庫跡地の早期返還に関する陳情」を基地対策特別委員長に提出した(資四―269)。さらに、十一月二十五日に多摩市議会は「米軍多摩弾薬庫跡地の早期返還に関する決議」を可決した(資四―269)。
昭和五十一年(一九七六)には、天皇在位五十年記念公園として記念公園を誘致する要望書が多摩市議会で可決された(資四―270)。また、昭和五十四年(一九七九)には、南多摩ニュータウン協議会が多目的な公園建設の要望書をまとめた。