多摩村では「下水」処理に関して、大別して三つの問題が発生していた。第一点は、生活排水が原因で発生する悪臭の問題、第二点は、生活排水の行き場確保の問題、第三点は降雨時に起きる、農業用水路、道路側溝、暗渠(埋設された排水管)などの氾濫による浸水害問題であった。
昭和三十年代以降、聖蹟桜ヶ丘駅周辺や鎌倉街道沿いの農地は、都心方面への交通の便の良さから次第に宅地へとその姿を変えていった。そうした宅地化の進展とともに、炊事、洗濯、風呂で使用した生活排水量も当然増加していった。下水道が未整備のため、道路側溝、農業用水路などを通じて大栗川、乞田川などに生活排水をそのまま流し込んでいた。やがて、住宅の密集する地域で、排水路と化している農業用水路や生活排水が集中する河川から悪臭が発生するなど、環境衛生にかかわる問題が起き始めたのである。
では、具体例をみてみよう。昭和三十三年度事業で、多摩村は関戸地区に村営住宅を二〇戸建設する。しかし、予算の都合上、河川に接続する排水路を設置できなかった。やむをえず、付近の農業用水路へ排水していたが、生活排水の流れが悪く不衛生なため、村へ苦情が寄せられることがあった。この農業用水路は、「出水期に流れる位のもの」で、普段、水流はなく、生活排水が流れるだけだった。さらに翌年度にも、村営住宅が隣接して二〇戸建設されることになった。新たな村営住宅の生活排水は、「空堀」を利用して付近を流れる「大川」へ排水する予定となっていた(多摩市議会蔵)。大川は、本来は農業用水路であり、水無川とも呼ばれ、一ノ宮、関戸地区を流下している。昭和四十二年には、水無川の悪臭に悩まされる住民から、町議会へ環境衛生改善の請願が提出されている。悪臭の原因は、水無川が聖蹟桜ヶ丘駅付近の繁華街を流れているため、周辺の各種事業所や住宅の生活排水がすべて流れ込むことにあった(資四―287)。
こうした住民からの要望に対し、昭和四十三年度から大川(水無川)の流れを良くするため、川底をさらうなどの改修工事が開始され、また、利用されなくなった農業用水路を排水路として整備するなどの対策が講じられていた(『議会だより』一六号 昭和四十七年九月十日付)。しかし、こうした町の対策も応急的なものでしかなく、抜本的な解決策は、下水処理施設の整備以外にはなかったのである。
一方、市内には、生活排水の行き場確保に非常に苦慮していた地域が存在した。家庭からの生活排水を道路側溝、農業用水路などへ流し込めない地域が点在していたのである。その地域の各家庭では、やむをえず敷地内に穴を堀り、生活排水を地中に流し込む方法をとっていた。しかしながら、多摩村一帯の地層は、排水が浸透しにくい土質であるため、連光寺地区の一部では、約半年ごとに多額の費用をかけて生活排水を流し込む穴を掘らなければならなかった。また、豪雨の際には、流し込んでおいた生活排水が周辺へ溢れ出し、非常に不衛生であった。そのような事情から、昭和四十二年(一九六七)六月、連光寺地区の住民が町に、地区外へ排水するための排水管敷設を陳情している(多摩市議会蔵)。こうした地域住民からの切実な要望は、繰り返し行われていたが、町が特定の地域だけに排水管を敷設することは難しかった。
下水道の未整備が原因で、住宅などで浸水害が起きる問題もあった。昭和三十五年(一九六〇)、桜ヶ丘団地の開発が始まった。丘陵の山林が切り崩されたため、降雨時に丘陵の裾野にあたる地域で浸水害がしばしば発生した。雨水が一気に桜ヶ丘団地から東寺方地区などへ流下し、狭い排水路に集中するため、行き場を失った雨水が周辺へ溢れだすのであった(資四―244・245)。
図2―4―2 現在の東寺方地区排水路
関戸地区では、降雨時にたびたび大川が出水していた。聖蹟桜ヶ丘駅を中心とした関戸地区と大川上流部の一ノ宮地区は、最も早く市街化が進んだ地域であった。宅地化が進むにつれ、田畑に浸透していた雨水は、そのまま排水路などから大川に集中し流れ込むこととなった。川床もそれほど深くなかったことも重なり、とくに下流域ほど住宅の浸水害に悩まされた。また、聖蹟桜ヶ丘駅周辺には商店が集まっており、浸水害は、商業活動に大きな影響をおよぼしていた(資四―286・287)。こうした地域の住民は、町に対し、その都度改善を要望してきたが、下水道が整備されない限り、解決は困難であった。
図2―4―3 関戸地区を流れる現在の大川