当時、三多摩地域の市町村にとって、ごみ処理施設を建設し運営していくことは、財政的にも技術的にも容易ではなかった。そのため、昭和三十八年(一九六三)九月、多摩村は、狛江町と共同で、ごみ焼却事業を行う一部事務組合「狛江多摩衛生組合」を設立した。一部事務組合は、複数の自治体が共同で特定の事業を行う組織のことである。翌三十九年八月には稲城町が加入し、「多摩川衛生組合」を設立した。この組合設立の背景には、三町ともに、ごみを町内の空地や山林などに埋め立て処理していたが、捨て場周辺住民の反対が高まり、新たな捨て場の確保が困難になっていた事情があった(『朝日新聞』昭和三十九年八月二十六日付)。昭和四十年四月、多摩川沿いの多摩町と稲城町との町境にごみ焼却場建設工事が開始され、翌四十一年四月に稼働開始した。この焼却炉は、一日八時間の稼働で三〇トンの可燃ごみを処理する能力を備えていた。
昭和四十一年(一九六六)四月、し尿処理とごみの収集方法などを規定した「多摩町清掃条例」が施行された。同条例では、町内を四つの区域に分け、それぞれの地区で可燃ごみを週二回、不燃ごみを月一回、町指定の民間業者に委託し、ポリバケツなどの容器を使用し収集することとなった。当初、ごみ排出には町当局への申請が必要で、処理費用の約三割、一般家庭では月額七〇円がごみ収集手数料として徴収されたが、昭和四十五年度より無料化された。
図2―4―4 ごみ収集区域(昭和41年4月当時)
昭和四十二年(一九六七)、多摩川衛生組合では、焼却炉増設計画を繰り上げる必要に迫られていた。都心などからの急激な人口増加で、ごみ排出量が、予想を大きく上回り、操業開始一か月後には早くも焼却能力の限界に達していた。昭和四十二年正月明けの一日分の可燃ごみの量は、焼却能力をはるかに越える九〇トンにもおよんだ。本来、ごみ焼却施設は十年、二十年後を想定して建設されるべきであるが、同組合側では「国や都の補助金がつかなかった上、起債も十分できず、とりあえずということで」建設せざるを得なかったため、こうした事態を招いた(『朝日新聞』昭和四十二年一月十八日付)。そこで昭和四十二年九月、焼却炉増設に着手し、翌年十一月竣工した。新しい焼却炉の完成により、二十四時間操業で一日最大一八〇トンのごみ処理が可能となった。
ごみの収集量は、人口増加のほか、生活様式の変化などの理由で年々増加の一途をたどったため、昭和四十五年(一九七〇)六月からダストボックスによる可燃ごみ収集が始められた。まず、大栗川北側の地域と桜ヶ丘団地に設置され、翌四十六年六月には町内全域に拡大された。昭和四十七年四月には、可燃ごみの収集回数は現行の週三回へと増やされた。ダストボックスによる収集方法には、町の美化を確保でき、作業の効率化が図れ、ごみ収集車一台当たりの人員を削減できるなどの利点があった。しかし、急速な市街化の進展により、交通量が多い道路に面した住宅地や聖蹟桜ヶ丘駅付近では、設置場所の選定が困難となった。危険物などの不燃ごみは、民間の埋め立て地へ搬入され処理されていたが、次第に市内では、埋め立て地の確保は難しくなっていた。
図2―4―5 ニュータウン初入居の頃の収集風景
一方、し尿処理については、農業の肥料として一部は利用されたが、概ね、民間業者による遠方の山間投棄に任されていた。この方法では、投棄される地域に多大な迷惑を与え、また、わざわざ遠方まで運搬する必要があるため、経費などの点で効率が悪かった。これらの理由で、町の事業として、し尿処理場建設が必要となった。昭和四十二年(一九六七)十二月、多摩町は、し尿を稲城町と共同処理する一部事務組合「稲城多摩衛生組合」を設立した。翌四十三年十二月に、多摩川衛生組合のごみ焼却場に隣接して、一日約六万人分のし尿処理が可能な処理場を完成させ、四十四年一月より処理事業を開始した。昭和四十六年四月、稲城多摩衛生組合に狛江市が加入したため、昭和四十六年六月、ごみ燃却とし尿処理を行う一部事務組合「多摩川衛生組合」が新たに発足した。
昭和四十五年(一九七〇)に「廃棄物の処理及び清掃に関する法律(廃棄物処理法)」が制定されたことにより、東京都は清掃条例を全面改正した。多摩市でも「多摩市清掃条例」を改正して、「多摩市廃棄物の処理及び清掃に関する条例」を昭和四十七年四月に施行させた。