公共交通機関では、大正期に鉄道が開通し、村北部の関戸地区に京王線聖蹟桜ヶ丘駅(旧関戸駅)が開設されている。京王線は、新宿まで乗り入れており、昭和三十八年(一九六三)十月には、聖蹟桜ヶ丘駅にも停車する特急電車を運行し始めた。村南部の地域へは、昭和三十一年二月に聖蹟桜ヶ丘駅と落合地区中沢とを結ぶバス路線が開通している。
昭和三十年代になると、東京への人口集中が急激に進むとともに都心は過密化していった。そのため、住宅を求めて多摩地域への宅地開発が盛んになっていった。また、その頃検討されていた多摩ニュータウン開発計画がその傾向に拍車をかけた。多摩村もその頃から徐々に宅地化が進むと同時に、鎌倉、川崎両街道の交通量がとくに増加した。やがて交通量の増加は、交通渋滞、交通事故などの事態を生じさせたため、住民から安全対策が要望された。
昭和三十八年(一九六三)十月、鎌倉街道(現在の旧道)と川崎街道が交わる大栗橋交差点に、多摩村で初めて信号機が設置された。当時その場所は、宅地開発の大型工事車両などが、ラッシュ時に一時間当たり四〇〇~五〇〇台も通行する交差点であった(『朝日新聞』昭和三十八年十月二十五日付)。そのため、同交差点ではしばしば渋滞が発生し、関戸橋へ向かう自動車の列が聖蹟桜ヶ丘駅までつらなっていた(『朝日新聞』昭和四十年五月五日付)。
川崎街道の聖蹟桜ヶ丘駅前は、大勢の人が横断する場所であった。しかし、交通量が増加の一途をたどっても、歩行者への安全対策はなかなか実行されなかった。川崎街道では、自動車が猛スピードで切れ間なく走行するため、道路を横断する歩行者にとって「命がけの道路」となっていた。また、道幅が現在と比較してとても狭く、大型車どうしがすれ違うと、歩行者は道路からはずれて歩かなければならないありさまであった(『朝日新聞』昭和四十年五月五日付)。駅前に信号機が設置されたのは、昭和四十四年(一九六九)のことで、同時に、和田地区の宝蔵橋付近や乞田地区の町営診療所付近などの交差点にも設置された。昭和四十五年五月には、連光寺地区の春日神社わきの川崎街道に、町内初の横断歩道橋が設置された。そこは道路の見通しが悪く、また、児童の通学路であることが設置の大きな理由であった(『たま広報』五一号 昭和四十五年五月五日付)。
図2―4―6 昭和43年頃の川崎街道 聖蹟桜ヶ丘駅前付近
昭和四十年(一九六五)十二月に多摩ニュータウン開発が都市計画決定される。道路整備に関して、ニュータウン内に計画的に道路を新設整備するとともに、関連公共施設整備事業として鎌倉街道や川崎街道が片側二車線以上の都市計画道路として整備されることになった。ニュータウン開発の関係工事車両の輸送路として(『朝日新聞』昭和四十二年一月二十五日付)、また、ニュータウン完成後の交通量増加に対応し、周辺交通を円滑に進めるための整備である。
鎌倉街道は、多摩ニュータウンに直結する幹線道路として、現在の旧道が部分拡幅されたり、新たに道路敷設されるなどの整備が行われていった。昭和四十一年(一九六六)八月に事業認可を受けたが、道路整備の影響を受ける地元住民の強い反対で(『朝日新聞』昭和四十二年一月二十五日付)、ようやく昭和四十四年度に関戸橋から多摩ニュータウン区域間が着工された。昭和四十六年三月のニュータウン諏訪、永山地区への初入居の際には、関戸橋から川崎街道の行幸橋わきまでの区間が開通した。同年十二月には、新関戸橋が開通し、旧関戸橋も利用して片側車線の複線化が図られた。また、多摩ニュータウン内での鎌倉街道の整備は、その内容に対し、地元住民の強い反対がありながら決定された土地区画整理事業のなかで進められ(資四―319)、昭和五十二年度に全区間の整備が完了した。
川崎街道の整備については、昭和四十四年(一九六九)五月、鎌倉街道との新たな交差点となる新大栗橋交差点と、宝蔵橋付近との区間を拡幅することが決定した。聖蹟桜ヶ丘駅周辺の商店街から拡幅反対の声も上がったが、昭和四十五年度より着工開始され、昭和五十二年度に同区間整備が完了している。こうして、主要道路の整備は進展したが、既存地区の大部分の生活道路は、急激で無計画に市街化したため、整備がかなり立ち遅れていた。
図2―4―7 昭和43年頃の鎌倉街道(現在の旧道)
大栗橋交差点付近
公共交通機関の整備では、聖蹟桜ヶ丘駅の全面改修があげられる。多摩村の宅地化が進むにつれ、聖蹟桜ヶ丘駅の利用者は年々増加していったが、開業以来、駅はほとんど改修されてこなかった。それに加えて、昭和四十六年(一九七一)の多摩ニュータウン初入居時に、ニュータウンまで鉄道敷設が間に合わないため、ニュータウン住民が最寄りの聖蹟桜ヶ丘駅を利用し、駅利用者が一挙に増加することが予想された。また、川崎街道は拡幅される計画となっていた(『読売新聞』昭和四十三年二月二十四日付)。京王帝都電鉄(現京王電鉄)の輸送力増強計画により、昭和四十三年度から聖蹟桜ヶ丘駅は全面的に改修されることとなった(『京王ニュース』一五九号 昭和四十三年四月一日付)。線路が旧駅舎で大きくカーブしていたため、列車とホームの間に隙間か生じて危険であった。そのため、駅舎を約五〇メートル北側へ移転させて、ホームと線路がほぼ直線化され、さらに、高架化された。昭和四十四年五月、新装された駅舎は開業した(『京王ニュース』一七三号 昭和四十四年六月一日付)。改修工事では同時に、駅北口にバスターミナルが設置され、同年六月より使用開始している。バスターミナルと駅とが直結したことで、バス利用が便利になるとともに、多摩ニュータウン入居で増加するバス利用者への対応がはかられた(『京帝たより』一九七号 昭和四十四年六月十五日付)。