都知事選挙

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戦後初の都知事選挙は昭和二十二年(一九四七)四月五日に執行されたが、この選挙における多摩村での棄権率は極めて高かった。昭和二十二年四月八日付の『毎日新聞』によれば、「棄権率六割七分九厘という三多摩地方最悪の南多摩郡多摩村」であったという。その要因は、多摩村村長選挙が無競争であったため都知事選挙が軽視されたからではないかと報じられている。多摩村での得票は、安井誠一郎(無所属)が五九三票、田川大吉郎(社会党)が五一七票を獲得した。
 昭和二十六年(一九五一)四月三十日の選挙での多摩村での得票は、安井誠一郎(無所属)が二〇八一票、加藤勘十(社会党)が八二四票であった。昭和三十年(一九五五)四月二十三日には、安井誠一郎(無所属)が一七三三票、有田八郎(無所属)が九三九票であった。
 昭和三十四年(一九五九)四月二十三日の選挙では、東龍太郎(無所属)が一五五〇票、有田八郎(社会党)が一六六四票であった。この選挙では、社会党候補の票が当選した東候補の票を上回っていた。この票は八年前の社会党票の二倍の得票であった。ニュータウン建設により新住民が転入してくるより前の時期から、社会党票が増加傾向をしめしていたことは、注目すべきことである。昭和三十八年(一九六三)四月十七日の選挙では、東龍太郎(無所属)が二二四三票、坂本勝(無所属)が一五〇二票であった。
 昭和四十二年(一九六七)四月十五日の都知事選では、社会党・共産党の統一候補である美濃部亮吉(無所属)が四一四一票、松下正寿(無所属)が三一七四票を獲得した。この選挙では、美濃部が当選し、革新都知事が誕生した。
 昭和四十六年(一九七一)四月十一日の都知事選では、美濃部が再選された。美濃部亮吉(無所属)は九八九三票、秦野章(無所属)は四二五八票であった。美濃部は、多摩町において、昭和四十二年(一九六七)の選挙の約二・五倍の票を獲得した。