村・町・市長選挙

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昭和二十二年(一九四七)四月五日の村長選挙は「無競争であった」(『毎日新聞』昭和二十二年四月八日付)。当選者の高野幾三は五四歳で、村長小川二郎の辞職によって、昭和二十一年(一九四六)十一月より、村長臨時代理をしていた人物である。昭和二十六年(一九五一)四月二十三日の村長選挙も、五八歳の現職村長高野幾三の無投票当選であった。立候補の意向をもっていた五四歳の有山貞一郎が辞退したため無投票となった(『毎日新聞』昭和二十六年一月三十一日付、四月十九日付)。
 昭和三十年(一九五五)四月三十日の村長選挙には、現職村長の高野幾三が村長選に出馬できなかった。それは、高野の出身地区である下川原地区がこの年の四月一日に府中市に編入されたためである。このため、この村長選挙は戦後初の複数候補による選挙となった。五七歳の杉田浦次と同年齢の小泉五十治との争いとなった。杉田は一九六〇票、小泉は一五〇七票であった。当選した杉田は、戦前にも昭和十八年から二十年五月まで村長をつとめていた。
 昭和三十四年(一九五九)四月の村長選挙は、横倉舜三の回想記『多摩丘陵のあけぼの―前編―』によれば、「現職の杉田浦次村長は出馬を見合わせ、青壮年層(へちま会)の推す富沢政鑒氏の出馬で無投票当選がほぼ固まっていた。もちろん、告示の日までは対抗馬が出るなど、村民は予想だにしていなかったのだ。そこに何の予告もなく高村さんが個人で出馬の届けをしたのだから、日常静かな村にさざ波が立ち始めたのである」という状態であった。結果として、新人ばかりの三人の選挙となった。四八歳の富沢は二六九九票、三七歳の高村旭は一〇八八票、四七歳の萩原祐介は一四票であった。当選した富沢は、名主をつとめていた名家の出で、父も村長であった。自身は昭和二十二年から三十年まで村議会議員であった。
 昭和三十八年四月の選挙についての新聞の予想は、次のようなものであった。「現村長の富沢政鑒(保守系無所属)と高村旭(同)両氏の立候補が予想されている。前村長の杉田浦次氏は病気のため今回も出馬はムリ。革新系は桜ヶ丘保養院など数多い病院労組を背景に対抗馬を立てようと人選をすすめている」(『毎日新聞』昭和三十七年十一月八日付)。現実には、富沢村長が無投票当選となった。このあと、昭和三十九年には、町制が施行されている。
 昭和四十二年(一九六七)の町長選挙には、二人の候補が出馬した。町長の富沢は五六歳、対立候補の大島菊一は四〇歳であった。大島は、昭和三十四年(一九五九)の村議会議員選挙に社会党から立候補して当選し、昭和三十八年(一九六三)の選挙では無所属として出馬して当選していた。大島は、この町長選挙では、無所属として立候補した。富沢の五五三四票に対して、大島は二二八一票であった。
 昭和四十六年(一九七一)の町長選挙は、六〇歳の現町長富沢に、三三歳の浜田正喜候補がいどんだ。この浜田正喜は三一歳の時、昭和四十四年(一九六九)七月の都議会選挙に共産党から立候補した。このときは町内での得票数一一六二票、南多摩郡全体では、五四九五票を獲得したが、落選した。四十六年四月の町長選挙では無所属として立候補した。富沢の八八二五票に対し、浜田は三五九三票であった。