村議会・町議会議員選挙の政党化

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昭和三十年代まで、多摩村の村議会議員選挙において、候補者のほとんどが無所属であった。政党名を明確にして当選した人物が出たのは、昭和三十四年(一九五九)が最初である。この選挙では、大島菊一が社会党から村議会議員に当選した。大島は四年後の昭和三十八年(一九六三)の選挙では、無所属として立候補して当選している。
 昭和四十二年(一九六七)四月二十八日の町議会議員選挙の結果は、多摩村・多摩町の政治史の上で画期的であった。一つは、政党化の進展がいっそう明確になったということである。政党名を掲げた議員が社会党から一名、共産党から一名ずつ当選した。無所属議員は一八名であった。共産党議員は二六歳で、戦後の多摩村議会議員のなかで最年少であった。それまでの最年少議員は、昭和三十年(一九五五)に三二歳で当選した横倉舜三であった。社会党から立候補して当選した新倉延一も二八歳と若かった。二つめは、共産党新人議員の横田勝子が多摩村内の病院の看護婦という労働者出身であるという点で、それまでの村議会議員とはタイプが異なっていたことである。地域の有力者によって構成されていた村議会に新風を吹き込んだ。こうした候補者が当選したことは、組織選挙とそれを支持した有権者の存在を示唆していた。三つめは、女性議員の増加である。それまでの一名(昭和二十六年の小泉文枝、昭和三十八年の高橋友江)から三名(高橋友江、横田勝子、小林八千代)になった。高橋友江は、昭和三十二年から三年間、多摩婦人会会長を務めた。小林八千代は、引揚者で婦人会会長をつとめた。
 昭和四十六年(一九七一)の町議会議員選挙では、公明党候補が初当選した。さらに、無所属ではなく自民党公認候補としての出馬・当選もあった。こうして、自民党二名、共産党二名、社会党一名、公明党一名、無所属議員二〇名という議会構成になった。女性議員は、昭和四十六年(一九七一)の町議会議員選挙でも引き続き三名が当選した。
 こうした議会における政党化の進展は、議会での論戦を活発にし、また、住民の要求に基づく政策づくりも各政党において進められるようになった。

図2―4―9 村議会議員選挙のようす