開発誘致の動き

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昭和三十八年(一九六三)二月九日、多摩村の地主会代表は、日本住宅公団による団地開発誘致を求める陳情書を村長に提出した(資四―252)。「多摩村岩ノ入、乞田、貝取、馬引沢等地区地主壱百余名」が、「所有山林及田、総面積約三〇万坪を取纏めて、この地域の開発を致し村の振興に役立たせ度い」との考えから、「日本住宅公団による国家的な開発を進めていたゞき度い」と村当局に陳情したものである。同時にこの陳情書には、「最近多摩村内の開発は各地域に及び主として会社民間の開発が行われて」いることへの懸念も表明されていた。
 地主会が開発を誘致するねらいは、次のようなものであった。「私達は、この地域の開発に進んで協力しこゝに集中する住民人口を基礎として、従来の農業経営を多角的に改善して必要物資(野菜、鶏卵、肉類等)の供給が出来る態勢を整備いたし度いと存じます。尚この際、この地域の道路の開発に対しても村当局の御協力をお願い申し上げます」。ここには、開発の進展によって多角的な農業経営を展開し得るとの見通しが示されていた。現に、二編三章三節でみたように、このころ多摩村の畜産業は順調な伸びを示しており、野菜生産も堅調であった。
 この陳情を行った南多摩郡多摩村地主会役員は、岩ノ入乞田地区代表が加藤猛雄、馬場益彌、佐伯信行、貝取地区代表が下野峰雄、馬引沢地区代表が相沢佐一の五人で、このうち下野と相沢は現役の村議会議員であった。これを受けて、二月十八日、多摩村長の富沢政鑒より、日本住宅公団総裁に宛てて日本住宅公団による団地開発の促進を求める陳情書が出された(資四―253)。この村長の陳情書は、先の地主会代表の村長宛の陳情書について「当村開発の方針に合致するものとして村議会に於いても同意致して居るものであり、当村に於いても出来得る限り協力致す所存であります」と述べていた。村長は、二月九日に提出された地主会の陳情書について、村議会の同意を得たうえで、二月十八日には公団総裁宛の陳情書を提出した。実に、素早い対応であった。

図2―4―13 日本住宅公団による開発を求める陳情書

 同年三月十五日の『朝日新聞』は「多摩村に大規模な住宅団地」という見出しで、日本住宅公団の貝取・乞田地区団地開発を報じた。「日本住宅公団、村当局の話を総合すると、団地の予定地は貝取、乞田(こった)地区の通称多摩丘陵。ほとんどが山林に囲まれた場所で、すでに地主約百人の『売渡し承諾』もまとまっており、今年のうちに整地が始まる予定だという」と。その記事は、村の対応について、次のように描いている。「頭のいたいのは、不動産業者の思わく買いで、団地につきものの学校や上下水道、道路の用地買収にどんな手を打ってくるか―これについて村では『どんな高値で買いに来ても〝うまい話〟には絶対のらないでほしい、それが村の発展に協力することだ』と強く村民の協力を呼びかけている」(資四―254)。巨大な多摩ニュータウン開発が動き出す前に、諏訪・永山団地の開発がすすめられていたことは、見落としてはならない。
 『多摩村広報』昭和三十九年一月一日号で、富沢村長は南多摩総合開発計画への賛成の意向を表明した(資四―259)。「多摩村地内に許容される人口は一〇万人を超すものと推定されます。このように前途には輝かしい発展が期待されております」と。このとき村長は、次のような未来像を描いていた。「私はこの大計画が一日も早く実施せられ、円滑なる運営に依って将来我等の郷土が理想的な文化都市となる事を熱望し、この実現に渾身の努を尽くす所存であります」と。このように、富沢村長は積極的に開発推進の態度を表明していた。