ニュータウン計画の原型

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昭和四十七年(一九七二)の二月に『朝日新聞』に連載された「多摩ニュータウン模索中」のなかで、次のような記事が目をひいた。
 「多摩ニュータウン建設のアイディアが、東京都のどこで思いつきが出され、どういう形で決定にいたったか、どうにもはっきりしないんですな。調査会の機能をあげて、追跡調査をしたが、結局わからない、ということが、わかりました。わずか十年そこそこなのに、その端緒は、すでに神話みたいな、ナゾみたいな」
 この談話は、都行財政臨時調査委員会委員の回顧として紹介されたものであるが、ここに示されているように、多摩ニュータウン開発には明確な出発点が見あたらない。建設省、東京都、日本住宅公団(当時)などがそれぞれに練っていた別個のアイディアやプランがいくつも折り重なるようにして、一つの開発計画にまとまっていったのであった。さて、その経過については、これから順次ふれていくことになるのだが、多摩ニュータウン開発計画のひとつの有力な原型を用意したのが、東京都首都整備局による大規模宅地造成の適地選定調査である。
 東京都は、昭和三十五年(一九六〇)七月に、各局に分散していた首都整備計画の部門をまとめて、首都整備局を設置した(初代局長・山田正男)。首都整備局では、当時の人口急増に対応し、居環境が良好で、なおかつ低廉な住宅地を大量に供給するために、この年の十二月から翌三十六年三月にかけて、区域面積約一〇〇〇ヘクタールの大規模住宅地に適した地域を選定する調査を実施した。その結果、多摩村の乞田、落合、貝取、唐木田、および町田市の小野路を適地候補として選定した。この段階では、開発計画について地元にはまったく知らされていない。さて、一〇〇〇ヘクタールという面積は、現在の多摩ニュータウン区域の約三分の一の面積ではあるが、当時の村民にとっては、想像もできない規模であったといえよう。多摩村随一の大規模開発としてこのころ造成中であった、京王桜ヶ丘団地の開発規模約七〇ヘクタールの一〇倍を超える、まさに想像を絶する規模であった。
 これに続いて昭和三十七年度には、東京都首都整備局は、さらに計画面積を拡大し、多摩村と稲城村を中心とする多摩丘陵の二つの地域(約一六〇〇ヘクタール)を対象に、合計一五万人を収容する集団的宅地開発の計画案を作成した(図2―4―14)。この案では、多摩村と稲城町にまたがる米軍多摩弾薬庫の移転と跡地の取得を前提にして、地域が設定されていた。翌三十八年には、首都整備局により、周辺の緑地構成についての調査も行われ、「市街地の周辺を取りまく緑地、空閑地は、可能な限り残」すこととされた。そこでは「田園風致の保存、都市に隣接した森林、農園、緑地等の保存育成には意をそそぎ、美しい自然的環境の確保をはからねばならない」ともうたわれていた。このように、東京都首都整備局は早くから巨大規模の開発を計画していたのである。だが、この段階では、南多摩丘陵において、住宅市街地化と農業の育成は両立するものととらえられていた。この大規模開発計画案が、新住宅市街地開発法とむすびつき、この地域の農業はなくならなければならないものとされるのはもう少し先のことであった。

図2―4―14 東京都首都整備局試案の計画図
東京都首都整備局『集団的宅地造成関連地域における緑地構成についての調査報告書』(昭和37年度)より作成。