南多摩総合都市計画の策定

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こうして都市計画区域が決定すると、次に、その用途地域と街路、公園の指定を行うために計画案が作られることになった。この計画案の策定は、各自治体から財団法人都市計画協会に委託され、当協会の中に構成された南多摩総合都市計画策定委員会(委員長・松井達夫)において、昭和三十八年十月から翌年三月にかけて作業が進められ、『南多摩都市計画策定委員会報告書』としてまとめられた。黒い表紙に白抜きで「南多摩」と書かれた報告書は、関係者の間で、『黒表紙』とか『南多摩』と通称で呼ばれていた。多摩村では、この都市計画策定のための委託料を追加更正予算を組んで支出した。富沢村長はこの予算について、昭和三十八年十二月十九日に開かれた多摩村議会第四回定例会で、次のように説明している。
 「都市計画を行うには他町村との継り等、その計画を立案しなければなりません。そこで、都市計画協会の学識経験者により、立案してもらう訳です。現在、多摩村の周辺には四つの都市計画区域があるので、その関係及び事務を委託する訳です。尚、委託料ですが、多摩都市計画は三ヶ町村で五十万円で、今回はその一部、十万円をお願いする訳けです。」(多摩村議会会議録)
 東京都の資料によれば、この委託は、工期が十月から翌年三月、発注主体は東京都首都整備局、委託費は二〇〇万円となっている(東京都首都整備局『多摩ニュータウン構想―その分析と問題点』昭和四十三年)。
 さて、この都市計画策定作業にいたる経過について、『南多摩都市計画策定委員会報告書』では、次のように説明されている。
 「東京都の著しい人口集中によって生じた周辺地域における住宅地の開発を健全なものとし、住宅難に対して大規模な住宅供給を行う目的で、昭和三十八年七月に新住宅市街地開発法が指定され、東京都においても、多摩丘陵一体を候補地として調査を行っていたが、おおむね多摩町、稲城町、由木村の区域について新住宅市街地開発事業を行うことが適当であるとの結論に達し、その前提となるべき、土地利用、街路、公園などの計画について本委員会にその計画案作製を委託されたわけである。」
 この委員会には、建設省、東京都、日本住宅公団から委員が出され、そこで協議・調整がすすめられた。いわばこの三者の合作の形で、開発への基本的枠組みが作られていった。そして、この委員会の作業のなかで、昭和三十九年三月までに多摩ニュータウン開発計画案の第一次案から第三次案までが検討された。翌年にまとめられた『多摩ニュータウン開発計画一九六五』によれば、「計画案の変遷は、東京都首都整備局試案を原案とし、別にすれば、以下、第一次案から第六次案(答申)となる。そして、第一次案~第三次案は、南多摩綜合都市計画策定委員会の作業の中で展開されたもので、その結果は新住宅市街地開発区域として定められ、又、用途地域、主要公共施設等の都市計画決定のベースとなったものである」とされている(『多摩ニュータウン開発計画一九六五』)。この委員会の作業の過程で、開発計画は東京都首都整備局の「原案」よりもいっそう大規模なものとなっていき、都市計画の策定とあわせて、南多摩丘陵の三〇〇〇ヘクタールにおよぶ広大な土地が、全面買収方式による用地取得を前提とする新住法開発地域としてセットされた。東京都の試案と新住法の手法とが結びつくことによって、そのどちらもが当初予定していなかった大規模かつ全面的な計画案が作られていったのである。