開発の受け入れへ

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富沢村長は『多摩村広報』昭和三十九年一月号の「新年の御挨拶」で、多摩ニュータウン開発計画の土台となった「南多摩総合開発計画」について次のようにのべている(資四―259)。
 我多摩村に於いてもこの計画の一環として、乞田の永山及貝取瓜生地区に一三二万平方米の地域を日本住宅公団が買収して、住宅団地を建設することになりました。この団地には約三万人の人口が住まう事となります。更にこの団地の都道三七号線(鎌倉街道)をへだてて、西側には更に大きな団地の開発計画も予定されて居ります。
 この総合開発が実施されますと我多摩村のみならず関係市町村は一大変貌をするものと思われます。多摩村地内に許容される人口は十万人を越すものと推定されます。(中略)
 私はこの大計画が一日も早く実施せられ、円滑なる運営に依って将来我等の郷土が理想的な文化都市となる事を熱望し、この実現に懇親の努を尽くす所存であります。

 このように富沢村長は、大規模開発によって多摩村が農村から「文化都市」へ転換を遂げることを期待していた。ところで、村長はこの文章では新住法にふれておらず、開発が進められたならば村内の多くの農家が営農継続できなくなることを明らかにしていない。富沢村長の発言としては、同年一月の農業委員会定例会の席で「永山周辺は日本住宅公団へ買収されており、今後は一帯は新市街地開発法にもとづき適用地域に指定される公算大である」とのべていたことが確認できるが、この時点では、そのことの意味が広く村民に伝わってはいなかった。
 昭和三十九年(一九六四)三月に南多摩総合都市計画策定委員会がマスタープランの三次案までの検討を終えると、五月二十八日、東京都首脳部会議は「多摩新都市建設に関する基本方針」(資四―295)を定め、多摩丘陵に新住宅市街地開発法を適用する大規模宅地開発事業が行われることが本決まりになった。それによると、目的としては「東京都内における宅地難の現況並びに本地区における各種起業家の無秩序、無統制な宅地造成の現状にかんがみ、多摩都市計画区域を中心とした区域に新文化都市を建設しようとするものである」とうたわれていた。その第一期事業とされたのが、現在の多摩ニュータウン開発にほぼ相当する。「約三二〇〇ヘクタール(約九六〇万坪)の地区につき、新住宅市街地開発事業を実施するほか、隣接各都市を結ぶ幹線道路の整備、河川改修及び上水道等の関連事業を行うものと」され、「おおむね昭和四十五年度完了を目標とする」ことと、「第一期事業に要する経費は、おおむね一四四九億円と」することが定められた。
 ところで、新住法第二六条には、新住宅市街地開発事業の事業計画を定めるときには「関係のある公共施設の管理者」などに協議しなければならないという規定がある。通称「二六条協議」と呼ばれるものである。よって、施行者が新住宅市街地開発区域指定をするには、関係自治体や関係諸機関から同意の回答を得ることが必要であった。おりしも、昭和三十九年四月に町制施行した多摩町では、同年九月二十三日の多摩町議会全員協議会において、以下の条件を付して、多摩ニュータウン開発の受け入れに同意している(『多摩町誌』)。
一、既存集落の取り扱いについては、充分考慮されたい。

二、区域内住民の生活再建については、充分考慮されたい。

三、公共施設については新住宅団地とその周辺地との格差の均衡を考慮されたい。

四、事業区域内公共施設の自治体移管にともなう資金等については、格段の考慮の上、地方財政に圧迫を加えぬよう考慮されたい。


図2―5―2 聖蹟桜ケ丘駅に飾られた町制施行を祝うアーチ

 多摩ニュータウン開発関係四市町(八王子市、町田市、稲城町、多摩町)からの同意の回答は、九月二十四日に出そろった。しかしながら、同月三十日、防衛施設庁から、米軍多摩弾薬庫を事業計画区域から除外するよう要請があり、東京都はこれを受け入れて区域面積を減らして内申し、十月二日には、東京都市計画地方審議会において、内申どおりの区域を都市計画決定すべきことが議決された。