多摩ニュータウン開発計画一九六五

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多摩ニュータウン計画の実施計画や区域決定をめぐって、地元からさまざまな要望が噴出し、多摩ニュータウン協議会が要求の取りまとめ作業を行っていた時期にも、開発計画の策定は着々と進められた。東京都首脳部会議が昭和三十九年五月に「多摩新都市建設に関する基本方針」を定めると、東京都首都整備局は計画案の策定を「日本都市計画学会に特別に構成された」新住宅市街地計画策定委員会に委託した(『多摩ニュータウン開発計画一九六五』)。委託費は二五〇万円で、工期は昭和三十九年九月から四十年三月までとされた(『多摩ニュータウン構想』)。この計画案は四十年二月二十日に報告された。これがマスタープラン第六次案にあたるものであり、「これにより、区域の範囲、人口、土地利用、道路網の計画など、多摩ニュータウンの骨格がつくられ」た(『多摩ニュータウン事業概要』)。

図2―5―4 『多摩ニュータウン開発計画1965』に描かれた完成予想図

 この計画案は「多摩ニュータウンを、大都市の容器拡大をはかり、何もかも東京都心に依存しない住宅消費都市として開発する方向を与えた」ものである。すなわち、「都心に対して諸サービスの依存をうち切り、自らサービス施設を成立させる条件を人口一〇〇万と考えれば、八王子―日野―多摩ニュータウン―町田―相模原をまとめて、一〇〇~一二〇万人の支持人口を構成できる」と考えて、これらの五都市を結んだ連合都市を作り上げようとしたのである。そして、「多摩ニュータウンは、新規開発であるから、交通施設、センター用地等理想的に建設できる上に、かつ各都市をつなぎ合わせる交通上の位置にあることから、連合都市の中心地区として、大都市都心型のサービス施設を提供しうるような、大センター用地と諸設備を開発する」(『多摩ニュータウン開発計画一九六五』)と構想は一段と大規模化していった。こうして、多摩ニュータウンに高速鉄道を引き込み、高規格道路を縦横に配置することが決定された。同時に「多摩ニュータウン区域内の経営耕地はなくなる」ことも決定づけられた(資四―297)。