用地買収への農家の抵抗感

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昭和四十年の秋になって、買収交渉が個別の農家におよびはじめると、とつぜん新住法によりすべての土地を強制的に買収するという話を聞いて、各農家は驚き、当惑した。そのころ落合中組で専業農家を営んでいた峰岸松三(大正十一年生まれ・当時四三歳)は、ニュータウン開発の用地買収が始まるまで、生涯、農業を続けるつもりであり、自分の耕作地を売却する意思はまったくなかった。昭和四十年十一月の説明会について、彼は次のように振り返っている(資四―362)。
場所は小学校第一分校の校庭で、イスを並べただけと記憶している。多摩町役場からは、それまでも此の日にも何んの知らせや立ち会いも無かった。すべて施行者の公団や東京都まかせであり、この年の三月一日号の「多摩広報」に富沢町長が諏訪、永山に団地開発が計画され、六、七月頃に東京都が内容を発表するので、地元要望事項を陳情すべく用意している、とあって、既存地区が全面買収になって、生活再建をどのようにするのかなどは全く地元住民には知らされていなかったのである。

 ここには、基礎自治体としての町役場が、地権者である自分たち住民に直接説明をしなかったことへの憤りがあらわれている。また、乞田・貝取地区の任意先行買収から強制買収へと方式が変わった経過について、峰岸の目には、以下のように映った。施行者は「最初は、新住法を土地所有者に全く知らせず、先行買収と言って、委託された不動産会社により、地主が売ってもよいと云う、道路や住宅地から離れた奥地を虫食い状態の如に買い占めていった」。そして「買収が既存集落の家周辺に及んで買収が困難になった時に」、この用地買収は「秘密にしておいた新住法によるニュータウン開発の買収で、区域内は総て全面買収するものであり、反対しても強制収用であるから、早く売った者が得になると、おどかして買収を迫ったのが実情」だ、と。だまされたというのが、偽らざる心境であった。
 また、同じく落合中組の小泉茂一(大正十四年生まれ・当時四〇歳)は、弟の直治とともに専業で酪農を営んでいた。昭和三十年頃から畜産を本格的に始め、しだいに規模を拡大し、飼育頭数が三〇頭になって、経営が軌道に乗り始めたころに、多摩ニュータウン開発による全面買収の話を聞いた。茂一の父・五十治は、当時、多摩町農業委員会の会長をつとめており、多摩ニュータウン開発の「推進派の方」だったのであるが、「うちに来ちゃあ、そういう事をあんまり言わなかった」そうである。小泉茂一は、当時は農業の経営規模を徐々に拡大しているさなかだったので、開発を始めるといっても「ちったあ、農業も認めてやらせるのかと思っていた」という。「全面買収で全部、牧場なんか立ち退きだって言うんだよな、どっか北海道にでも行けなんていってたんだよ」(小泉茂一氏からの聞き取りより)。父親の五十治は、役職上、ニュータウン開発の誘致を認める立場にあったが、専業農家で生計を立てている自分の息子たちには、開発計画の内容を話しづらかったのだろう。
 こうしてみると、用地買収に至るまでに、施行者としては、行政当局、町議会、地主代表者、部落代表者などに説明を尽くしたと考えていたのであろうが、そのような有力者が地域の各農家に正確に情報を伝えていたわけではなかった。また、説明を受けた有力者たちが、施行者に対して、各農業者の要求や意見を積極的に伝えることもなかったようだ。「すごい街になるんだってよ」、「まあ、けっこうな話じゃないか」(小泉アサ氏からの聞き取り)といった話が口伝えにつたわっていただけで、各農家にしてみれば、とつぜん全面買収を迫られることになるとは思ってもみなかったのが実態であった。ところが、日本住宅公団が用地買収交渉の開始にあたって各農家に配付した価格表の文面は、冒頭からいきなり「別添の図面に表示してある価格で買収させてもらいます」と切り出されており、最後には「なお、事務処理、その他については日興不動産(株)に依頼しておりますので、直接お訪ねの節はよろしくお願い致します」と結ばれていた(資四―300)。このような説明ぶりは、用地買収に対して不安や抵抗感を持っていた農業者たちの神経を逆なでする結果を招いた。

図2―5―7 開発前の谷戸田の風景