計画除外を求める請願運動

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日本住宅公団は、昭和四十年(一九六五)十一月から、新住宅市街地開発事業のための用地買収に本格的に着手したのであるが、その買収交渉はかなり難航した。用地買収を担当したのは、この年の八月一日に開設された南多摩開発事務所の用地課であった。山林部分の売却にはさほど抵抗がなかった農家であっても、買収の対象が主要農耕地や集落部分におよび始めると、そうそうすんなりと土地を手放すことはなかった。乞田永山地区の市村喜久雄(大正十五年生まれ・当時三九歳)は、父親が亡くなってから野菜作りを中心とした農業に転換し、専業農家として自立をはたして、順調に経営を続けていた。「盛んにやってる時ぶんに公団の話が始まってきて」、「うちは百姓しなきゃあしょうがねえから、代替地を持ってくるのか、と言っても……ただ売ってくれってくるだけのもんで、五、六人で来るんだねえ……最終的には土地収用法をかけるからって言ってたね。おれなんか、この話は今日は忙しいんだからだめよ、なんて、門前払いというか動かなかったけど」と、話しに応じないことで抵抗の意思を示したという(市村喜久雄氏からの聞き取り)。
 いっぽうで、請願署名を集めて用地買収に反対する動きも始まった。ここも、峰岸松三の記録を紹介しておこう。
 「全面買収で他所に移転させられる」という事の重大さに驚いて、この時は後の生活をどうするかなどは考えになく、エライ事になったと皆が怒っていたが議員や町役場の部落の指導的立場の者達は何も先に立ってしようともしなかったのが実情である。此の頃私は農協の支部長か役場の農業対策委員であったと思うが、小林藤雄さん、乞田の小磯美代治さんなどと相談して委員をつくり、住宅地とその周辺の農耕地はニュータウン計画から外して貰おうと文面を作り、農家を廻り署名をお願いに歩いた。

(峰岸の手記『生活再建のこと』)

 峰岸は、小泉茂一とともに落合中組の署名集めを担当した。このとき、それぞれの地区ごとに署名の筆頭に有力者を立てている。落合は有山貞一郎、乞田は新倉富作、貝取は新倉兵蔵、連光寺は小形稔、和田は由木時三、百草は臼井鎮雄であった。
 こうして、当時の多摩村にとっては異例の幅広い請願署名運動が広がり、昭和四十年の年内に地権者四一三名の署名が集まった。この「南多摩ニュータウンに関する請願書」(資四―309)は、翌四十一年二月七日付で多摩町議会議長に提出された。請願書はまず、多摩ニュータウン開発事業が「行はれる事に関しては」「都の住宅事情から真に止むを得ない事と考へます」と開発そのものを拒否するものではない立場を明らかにしたうえで、しかし、「施行者日本住宅公団の買収計画の説明によれば、点在する住居は勿論、集落についても全面買収で、しかも移転離農等に対する補償についても周到な配慮がなされているとは認めがたいので、関係者、過度の不安におそはれて居る次第であります」と、各農家の心情を訴えた。そして「集落(点在する住宅を含む)及其の周辺の土地並に主要農耕地を計画から除外する事を要望」した。

図2―5―8 集落と主要農耕地の計画からの除外を求めた請願

 この請願は、昭和四十一年(一九六六)二月二十一日に、多摩町議会第一回臨時会第一日目の冒頭で上程され、即日採択され、細かい点については南多摩ニュータウン特別委員会に諮られることになった。そして、その日のうちに「南多摩ニュータウン建設に関する意見書」(資四―310)が上程され、議決第八号として即日原案可決されたうえで、施行者および関係機関に提出された。この意見書では、「計画区域内を安住の地としている現住民を犠牲の下に、新しい住宅施策を実行する如きは、住宅政策の本末を転倒するものと考えざるを得ない」との見解が示された。住んでいる人を追い出して別の人に住宅を供給することに公共性が認められるのかという、新住宅市街地開発事業の根本に対する疑問である。そして、施行者に対して集落部分を計画予定地から除外することを要望した。
 農業者たちが請願書で要望したのは、集落と主要農耕地を計画区域から除外することであったが、意見書では主要農耕地についてはふれられていない。請願が採択されたことにより、農業者たちはひと安心していたのだが、実は町議会の意見書では営農継続の保証については施行者に要望していなかった。峰岸松三は「宅地と周辺農耕地除外の請願は議会を通し施行者に請願されたが、その解答はなかなか地元住民には示されず、陰では買収が進んでいた」(峰岸松三『生活再建のこと』)と書き留めている。まさか、採択された請願と、施行者に出された意見書が根本的なところでことなっていたとは、峰岸のみならず多くの署名者たちが思いもよらなかったことであろう。しかし、多摩町議会としては、昭和三十九年に開発を受け入れたときの条件や、昭和四十年五月に南多摩ニュータウン協議会が要望した事項よりも厳しい要求を施行者につきつけるわけにはいかなかったのである。