土地区画整理事業の導入とその波紋

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用地買収交渉が本格的に着手されはじめたころ、多摩ニュータウン開発の実施体制をめぐって都庁内では議論が積み重ねられていた。昭和四十年十二月九日には、建設局や水道局が施行する関連公共施設整備をめぐって、各施行者間の連絡調整が不充分であり、「事業計画の再検討、実施方針の明確化が肝要である」ことなどを理由に調整会議が開かれた(資四―301)。ここでは開発にともなって開発区域外の関連公共施設(河川と道路)の整備が絶対に必要であること、財源の確保を建設省に強力に要望する必要があること、事業推進のために機構整備が必要であることが確認されている。このような事態について、首都整備局からは「このような大事業は、やってみなければ分からぬ。不確定な要素もまたやむを得ぬのが常識」という意見が出されている。
 都庁内部で実施体制の足並みが揃わないのみならず、地元からの計画区域からの除外要求も強まり、用地買収もすんなりと進まず、事業は難航した。日本住宅公団は昭和四十年五月に南多摩開発事務所を南多摩開発局に改組したのであるが、そのころ南多摩開発局事業計画課長をつとめていた川手昭二は、集落部分を「開発区域にいれたまま収用事業に入ることに対して、地元が……徹底的に反対した」し、「われわれ内部の用地買収担当課が、新住法の適用でやろうとしてもとても無理だ、どうしてもはずしてくれという深刻な議論もあった」と語っている(川手昭二「多摩ニュータウンにおける土地利用計画の機能」『総合都市研究』一〇号)。建設省は「既存集落を除外すると、その地域だけが計画から取残され、アンバランスな形になって総合的な都市計画の趣旨に反する」と、あくまで計画通りに建設をすすめるよう主張していたと言われるが(『朝日新聞』昭和四十一年十一月二十九日付)、東京都首都整備局においても「ともかくこう反対が強くては駄目だ、ということと、反対の方々の言い分にも尤もなところがあるという事に」なったと言われている(北条晃敬「多摩ニュータウンの計画と建設」)。
 このように全面買収方式による開発が困難な状況で、日本住宅公団は大高建築事務所の協力を得て、昭和四十年三月から十一月にかけて「自然地形を前提とした住宅地開発のモデルとそのコスト分析」の調査を行い(『南多摩開発局一〇年史』)、これがマスタープラン七次案(自然地形案)となった(『多摩ニュータウン事業概要』)。これによって、谷戸の集落部分を残した開発が可能であることが示され、政策転換への可能性が開かれた。
 昭和四十一年九月十七日に開かれた都庁内の調整会議では、首都整備局より「公団の工事計画をめぐって、既存集落の除外、土地高騰をめぐり、河川、山の中等に計画放棄区域がでている。解決策として、事業区域から除外するか、区画整理方式でやるか検討中である」と報告されている(資四―304)。続いて、十月六日の首脳部会議では、「既存集落の区域除外に関する地元市町の要請の取扱いに当たって、本来施行者である住宅公団は、その部分を地方公共団体としての都の肩代わりを望んでいる」と報告された。このとき、首都整備局長は「区域内とされている地域を区域外とする場合は、区画整理事業を実施するという条件をつける必要がある」とのべている(資四―304)。
 十一月二十二日には、地元市町長と首都整備局長の打ち合わせがもたれ(『多摩ニュータウン構想』)、ここで土地区画整理事業の実施について合意に至り、同月二十五日の東京都首脳部会議において、南多摩新都市開発事業の都市計画を変更することと、既存集落部分約二一〇ヘクタールを開発区域から除外して、土地区画整理事業を施行することを決定した(資四―305)。なお、じっさいに新住事業と土地区画整理事業が一体的に進められることになると、自然地形案では効率や工事にかかる時間の面から問題があると修正され、最終的には中造成案が採用された(『多摩ニュータウン事業概要』)。
 こうして、多摩ニュータウン開発は、新住宅市街地開発事業と土地区画整理事業の二本立てで進められることになった。この決定を受けて、開発の足取りはピッチをあげていく。十二月一日、東京都は南多摩新都市開発本部を設置し、東京都の事業の本格実施にむけて推進体制を一元化した。同月二十四日、開発事業の都市計画変更について建設省告示がなされた。翌四十二年からは、鉄道、上水道、下水道、電力、ガス等、都市基盤整備についての各施行者、事業者との協議も本格的に開始された。
 さて、開発から除外する区域が確定すると、こんどは除外されなかった区域に対する用地買収交渉が大詰めとなってくる。計画除外区域以外に買い残しが出ることは、開発施行者にとっては許されないことであった。用地買収交渉の過程で、各農家は、除外された区域が予想よりも狭いことを知ることになった。また、そこに実施される土地区画整理事業によって、生活の激変を迫られることを次第に知り、ふたたび大きな衝撃を受けることになるのである。さっそく署名集めが始められ、七五八人の請願者による「多摩地区区画整理反対に関する請願書」が、昭和四十二年(一九六七)四月十七、十八日ごろに町議会事務局に提出された(町議会会議録)。請願者たちは、計画区域から除外されたわずかな集落部分の土地に「河川、主要道路、鉄道敷、及び其の他の公共用地まで減歩で進める様な計画方針とあっては全く住民の所有権を無視した方法だと考へるより外ありません。其の上、工事期間中長期間の休農及び其の他、不利に関する損害処置等は何んらの考慮もされておりません」と主張した。そして、施行者側が「根本的に考へを新に変へざる以上、当地区住民は断固一丸となって此の区画整理に反対して所有権を確保する為、此の度所有地の立ち入り測量等の禁止を併せた反対の意を充分御留意の上住民の為に善処」するよう要求した。反対の考えが強いことをアピールしているが、買収も進んできたなかで、具体的な要求を見いだせなかったことがわかる。施行者に「根本的に」計画を考え直してほしいと訴えるにとどまった(資四―319)。
 この請願は、町議会議員選挙直後の五月六日に開かれた第二回臨時会に、馬場益弥と高村芳一の二名の紹介で提出され、審議ののち、議員全員で構成する都市計画特別委員会を設置して、そこに付託することになった。委員会の審査経過を、昭和四十二年六月十九日付の多摩町議会都市計画特別委員会「委員会審査報告書」(多摩市議会蔵)をもとに、見てみよう。第一日(五月十二日)には、開発事業の「経過の概要についての説明を受け」、「計画されている区画整理事業は関係住民に及ぼす影響が非常に大なるものである」から、公聴会を開くことを決定した。第二日(六月一日)には公聴会の公述人を決め、第三日(六月六日)に公聴会が開かれた。六月十二日には、「施行者(東京都)側の係官を招」いて説明を受けたが「関係住民との考え方の相違は著るしいものがある」と記録されている。第四日(六月十九日)には請願書の討議を行って、採択すべきであるとの結論を出し、以下の意見を付した。
この多摩地区区画整理事業は、其の成否の如何によっては将来の多摩町の在り方を左右する重大な要因となり、其の及ぼす影響も甚大である。又、同時に関係住民に与える利害も極めて深刻であると考えられる。従って、願意の実現にあたっては、深く其の本旨を洞察し、住民福利の向上のために特別の配慮をなし、要すれば、執行者、議員共に一丸となって、これが対策のため努力すべきである。

 同じ六月十九日に、多摩町議会第二回定例会でこの請願についての審査結果が報告され、多少の審議を経たのち採択された。それに関連して、下野峰雄議員は、区画整理事業に関連して「財政的にも住民が不便を案じないような施策を」町長は考えているか、また、「農地が狭くなり、農業の高度化をやらなければならない」場合に「将来、都市センターとかその他のものをつくる計画が」あるかの二点について質問した。富沢町長は、土地区画整理事業をスムーズに行って区画街路を決めていくことが「町づくりの上からもっとも理想的なものだと思う」とのべると同時に、施策については東京都が計画することであると明言を避けた。そして、住民とは充分な話し合いをして、了解を得ながらすすめていきたいと事業の推進に意欲を示している。また、農業にかんする施策は、農民自身が積極的にやってもらいたいことを施行者に意思表示しなければ具体的なことはできないと退けた。

図2―5―9 唐木田地区に立てられた区画整理反対の立看板

 多摩町議会ではこの年の八月三日に「多摩地区区画整理事業実施に関する陳情」をまとめ、都知事、首都整備局長、南多摩新都市開発本部長、都議会議長に対して陳情を行った。陳情者には多摩町議会正副議長のほか、都市計画委員会の正副委員長と六名の地元対策委員が名を連ねた。この陳情書では、区画整理事業を次のようにみなした。
 当町議会としては、この地域の区画整理の必要性は充分理解するところであるが、この地域は多摩丘陵の間にはさまれた巾狭き谷間の平坦地で、このニュータウン関連の幹線街路、排水施設に伴う大規模の河川改修、鉄道用地等が減歩の対象とされ、さらに一般区画整理と同様にその他の公共用地も減歩されることは地域住民として、到底その負担に耐えないものである。
 思うに、本区画整理事業は多摩ニュータウンの建設上不可欠の事業であり、この区画整理事業の進捗如何がただちにニュータウン建設に密接なる関連性を有するものであって、主目的はニュータウン建設におかれていることは明白である。

 そのうえで、以下の四点を要望した。
一、公共減歩を極端に圧縮すること。それが為には新住法による事業区域も一部区画整理地区に編入し、緑地、学校敷地等は当該地区内に設定すること。

二、家屋の移転をはじめ、その他の補償は充分に行うこと。

三、鉄道用地等は減歩の対象より除外すること。

四、工事中の災害対策、休農対策その他将来の諸施設に万全を期すること。

 こうして、多摩町は区画整理事業の必要性を理解し、その実施を認めたうえで、きびしく注文をつけるという態度をとった。
 いっぽうで、新住宅市街地開発事業区域の用地買収は強力にすすめられていく。前出の「ニュータウン計画の経過と問題点について」によれば、昭和四十年(一九六五)四月五日付の「公共用地の取得に関する特別措置法施行令の一部を改正する政令」により、多摩ニュータウン事業を特定公共事業として認定できるようになった。これによって、昭和四十年度に地権者が土地を売り渡した場合には、譲渡所得税が一世帯あたり七〇〇万円の控除が認められることになった。年度末が近くなると、公団の担当者は「年度が過ぎると控除資格を失って所得税を多額納税になる」と説得して売却をせまった(峰岸松三『生活再建のこと』)。
 また、山林部分については、知人を通じて代替の山林を紹介され、そちらの購入に先立って自己所有の山林を売却するケースも多かった。小林茂の調査によれば、落合地区では昭和三十四年から四十五年までの十一年間に山林の九八パーセントが売却されており、その後、昭和四十五年から五十五年までの十年間に、売却した山林面積の七割以上の面積の山林が新たに購入されている。「ニュータウン用地として強制売却させられた土地の代わりに、その売上代金で他県の山林を購入している」ということであった(小林茂ほか編『都市化と居住環境の変容』)。有力者が代替地を紹介することで、農家の土地を失うことに対する不安がかなり解消された。
表2―5―1 落合地区農家の山林・原野所有状況
(単位:アール)
昭34年 昭34年~45年の間の変化 昭45年 昭45年~55年の間の変化 昭55年
売却面積 購入 売却 購入面積
下落合 1,208.53 1,139.23 0 69.30 0 260.00 329.30
青木葉 3,284.57 3,227.56 0 57.01 10.47 1,076.07 1,122.61
山王下 1,373.86 1,373.86 0 0 0 77.08 77.08
中組 3,471.00 3,378.01 0 92.99 14.86 6,158.41 6,236.54
唐木田 1,654.13 1,645.40 0 8.73 0 142.78 151.51
合計 10,992.09 10,764.06 0 228.03 25.33 7,714.34 7,917.04
小林茂他編著『都市化と居住環境の変容』より。

 土地区画整理事業の導入によって集落の移転が避けられたのに続いて、昭和四十二年九月には、居住地部分について、生活再建措置として三〇〇坪まで等面積の宅地を優先分譲する措置が決定し、農家の用地買収への抵抗感はさらにやわらいだ。しかしながら、それで全部の農家が納得したわけではなかった。開発施行者は、営農希望の強い農家に対して、当初から生活再建措置によって、商業に転業するよう誘導したが、それでもどうしても土地を売ろうとしない農家には土地収用法が適用されることになった。
 日本住宅公団南多摩開発局は、昭和四十二年(一九六七)八月二十四日に、多摩町乞田の小林利兵衛と市村喜久雄の所有する「山林、水田など約四ヘクタールに初の土地収用法を適用して立ち入り測量を行った」(『読売新聞』昭和四十二年八月二十五日付・資四―355)。農業を続けたいから代替地を確保してほしいという市村の要求に対して、施行者側は団地内店舗への優先あっせんによる商業への転業だけしか生活再建措置を用意していなかったため、話し合いはずっと平行線をたどっていたのである。この記事によれば、「公団側は、市村さんらの土地四ヘクタールがニュータウン計画の心臓部にあたり、最も工事を急がなければならないため、三十八年ごろから用地買収に全力をあげ……この間、市村さんらの説得を続け、着工を延ばしてきたが、このままでは四十四年入居の計画が大きく遅れると、ついに収用に踏み切ったもの」とされている。市村さんはこのあたりで「もうしょうがない」ということで、立ち入り測量の二、三か月後に土地売却契約に応じ、店舗の優先あっせんを受けることにしたという(市村喜久雄さんからの聞き取り)。

図2―5―10 土地収用法の適用を報じる記事