区画整理事業の推進と生活再建措置

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土地区画整理事業への農家の不安が広がるなか、昭和四十二年四月の町議選で初当選した日本共産党の横田勝子町議は、各農家を訪ねて要求をまとめようとしていた。同年十二月には日本共産党としての現地調査を行い、翌四十三年二月、一六〇戸の農家にビラを配布しながら、農家の声を聞いてまわった。それをもとに四月二十二日に対都交渉、五月十日に対公団交渉を行い、土地区画整理事業が行われると農業の継続が困難になることを明らかにした。貝取の浜田正之は、横田の行動と連携をとりながら「農耕地を守り〝ニュータウン計画〟の再検討を要求しよう」をスローガンに全日農多摩町農民組合を再建して、農家の組織化をはかった(故・横田勝子氏所蔵資料より)。
 当時、落合楢原地区で営農の保証を強く求めていた小泉アサは、横田議員から聞かれて実情を話したりしているくらいで、地元の人から「みんな共産党になっちまった」と言われたと述懐している。また、「市役所の方へなんか、説明、陳情みたいに横田さんに連れられて行ったりしてね……だって、かわる人がいないからね。親身になって私たちの話をほんとに聞いてくれたのは、横田さんだけなんですよ」(小泉アサさんからの聞き取り)。
 このように政党や農民組合による運動が胎動し始めると、これに対抗して別の請願運動が起こされている。小泉茂一を代表として昭和四十三年の町議会に出された「多摩ニュータウンについて」と題された請願は、離農・転業に対する措置を求める内容であった。そこには、ある政党から支援の申し出も受けているけれども、私たちは「政党流」の運動ではなく、「国家的開発に協力する立場から」請願するとうたわれていた。買収の完了が近づいていた段階で、生活のためにどうしてもある程度の土地を残してほしいという農家が約二〇軒集まり「いろいろ議会やなんかと交渉して、だからここらへんまでは残してくれとか図面を作ったりいろいろな事をやった」という。きっかけは、残された農家が「みんな左翼になっちまうんじゃあないか」、「多摩の左翼の威勢がついちゃったんじゃあしょうがない」という「心配」からで、「横倉町議会議長の斡旋を受けて運動を始めた。小泉茂一自身も多摩町農民組合の集会にも二回参加した記憶があると話している(小泉茂一氏からの聞き取り)。

図2―5―11 多摩町農民組合の集会のお知らせ

 この請願書は採択されて、最終的には昭和四十四年三月十三日に、日本住宅公団から多摩町地主会代表の小泉茂一に示された「生活再建に必要な優先分譲について」という文書で決着がついた。その内容は、一一軒の農家に対して、二〇〇ないし四〇〇坪の業務用地(営農継続可能)の優先分譲か、賃貸店舗の優先貸付かどちらかを措置するというものであった。面積が減ってでも集約的農業をやりたいという農家の要求を受けたかたちになっている。しかし、場所が特定されないなど具体的な条件が出されず、店舗出店の方を強くすすめられてほとんどの農家が商業への転業の道を選んだ。これによって、離農・転業問題はほぼ決着をみた。